コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

ブログのタイトルを変えました

2007-12-09 00:32:45 | ノンジャンル
もう何回目なのか覚えていないくらい、度々ブログのタイトルを変えてきた。それほど、何のために書いているのかわからないというわけだが、「なにが粋かよ」(@斎藤龍鳳)の語呂合わせにも飽きてきた。それに、「逝ってよし!」とはやはり名科白だ。この軍隊言葉が2ちゃんたちから淀みなく出てきたことに、やはり驚くべきだろう。ついこの間まで、「戦後」だったからに違いない。

次は、「いいふりこき」という北海道弁をタイトルにする。「いいふりこきのがんべたかり」で完成型だが、「がんべたかり」が身も蓋もない。「ええっこしい」や「銀流し」といった都会的な揶揄は欠片もないところが、いかにも北海道らしい。誰か、Wikipediaの「吉兆」の項に、この完成型を加筆してくれないものか。もちろん、「さすが吉兆!」と賛辞を呈していた人へ贈る言葉として。

ま、とりあえず「考えた振り」をしたがる俺には、似合っていると思う。

以前から、「ふり(振り)」という言葉が好きだ。「振る舞い」は美しい響きの言葉である。「大盤振る舞い」や「振る舞い酒」には、ご馳走する側される側の潔い明るさがあって笑みが浮かぶ。『アメリカンダンスアイドル』を観ていると、ダンスにおける振り付けとは、「棒振り」と呼ばれるオーケストラの指揮者と同じくらい、大変な創造を軽々とやってみせる仕事なのだなと感心する。ちなみに落語で「棒振り(ぼてふり)」といえば、天秤棒で商売する魚屋のことだし、「棒振り剣術」とは実戦はからきしの侍を指す。振りとは営みに近いらしい。

野球には、「振り逃げ」という含蓄のある技(?)もある。打者が三振すれば普通はアウトだが、三振したボールを捕手が受け損なった場合、打者は1塁へ走ることができる。アウトになってがっくり肩を落とした打者、仕止めたとほくそ笑む投手と捕手、その一瞬後にあわてるところが可笑しい。おまけに投手も一塁カバーに走らなくてはならないから、息詰まる「真剣勝負」が一転してドタバタ喜劇になるのだ。

「棒に振る」というのは、案外未練がましくない感じがする。この棒の語源はなんだろう。一生を棒に振るなんていったり、いわれたりするのは、よほど前途洋々の人に限られるだろう。強い自負がありながら、それを捨て去る機会を待っていて、そこで自分の覚悟を試そうとしているようで、なかなかに男らしい。「棒ほど願って針ほど叶う」と対になっている気がする。そういえば、『いのちぼうにふろう』という山本周五郎作品の映画化があった。

「振られる」と受け身になると、これは悲しい。でも、どこかそれを楽しんでいるところもある。「振る」よりもずっと、心に何かが残る経験だと思う。また、「思い思われ振り振られ」とお互い様でもある。「人の振りみて我が振り直せ」という戒めもある。振りとは癖のことでもあるようだ。「見て見ない振り」という振る舞いは、実は奥ゆかしい。俺がつまらないことを書いて、恥ずかしがっているとき、あなたもそうしてください。
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痴漢冤罪

2007-12-07 01:01:16 | ノンジャンル
また、「痴漢冤罪」が話題になっているらしい。

映画を観れば、下記のように、いろいろ考えた振りはできるが、

『それでもボクはやってない』
http://moon.ap.teacup.com/chijin/233.html

実際問題としては、ほとんど解決できるはずだ。

たいていの人が解決の方法をわかっているはずなのに、なぜかそれをいわない。本当に痴漢したのか、誤解なのか、ハメられたのか、「藪の中」などと考えた振りなどせず、ようするに、満員電車を減らせば間違いなく痴漢は減る。つまり、交通行政の問題に過ぎない。過ぎないが、過ぎなくなるのは、いっかな満員電車解消に着手する気配がない、というより、「満員電車、いいかげんにしろ!」という声が乗客から上がらないからだ。誰もまるで天災のように受け入れ、解決できるとは考えたこともないようだ。それは異常ではないか。満員電車に死人のようになって乗っていることを、虫が変態するように思っていることこそ、異常ではないか。

久しぶりに、東京の地下鉄を乗り継いで、そう思った。
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マルホランド・ドライブ

2007-12-03 18:09:31 | レンタルDVD映画
http://ja.wikipedia.org/wiki/マルホランド・ドライブ

今さらのような旧作だが、「300」に「アポカリプト」、「スパイダーマン 3」などが並ぶ、新作レンタルコーナーに食指が動かないので。

聞きしに優るデビット・リンチの傑作だった。
マルホランド・ドライブに至る迷路の解釈については他に譲るとして、ここでは主演のナオミ・ワッツ賛江ということで。

ナオミ・ワッツに注目さえしていれば、この映画はそれほど難解ではない。あるいは、それほど美形でもなくバストも小さい、凡庸な容姿のナオミ・ワッツによって、この映画はとてもわかりやすくなったといえよう。

フリークス的な登場人物が多いなかで、洗剤のTVCMが似合いそうな色気に乏しいナオミ・ワッツは、かえって異色にみえる。リンチ映画に独特な不安定な人物像に惹かれている人は、ミスキャストではないかと首をひねるくらいだろう。

この映画でナオミ・ワッツはベティ/ダイアンの2役を演じ分けている。「スターでありながら、名優と呼ばれるような女優になりたい」とハリウッドに出てきたベティは、その類い希なる演技力と魅力的な個性によって、たちまち頭角を現す。一方、ベティを夢見た現実のダイアンは、2流女優のまま安アパートでくすぶっている。

俺たちも、たいていこんな夢をみる。そしてそれが夢でしかないことを、俺たち観客もよく知っている。しかし、ダイアンは夢見る頃を過ぎ、無残な現実に晒されても、別の夢を重ねて、ベティの夢を見続けようとする。

実際に下積み女優として苦労したあげくデビューして、当時まだ無名に近かったナオミ・ワッツが、とんとん拍子に認められていく夢のベティを見事に造型している。若く希望に輝くベティだが、どこか類型的で不自然だ。後半にならないとダイアンは登場しないから、前半ではベティ/ナオミが重複して、観客に刷り込まれていくのだ。

ナオミ・ワッツにとっては、可能性に溢れた明朗なベティを問題なく演じるだけでは足りない。ダイアンの願望を背負った過剰さがなくてはならない。それが小鼻から口角にかけてカーブする数本の皺によって、よく表されている。もはや若くもなく無垢ではなくなった女の哀しい滑稽さが、数本の皺というわずかな過剰によって示唆されるのである。

ナオミ・ワッツは、ダイアンにとっての夢のベティと、観客にとっての現実なのかというベティを同時に演じなければならない。となると、どちらにもなりきらないという方法で、いわばベティ・ダッシュを造型しないと、映画の求心力は失われてしまう。観客が、ああこれは誰かの夢なのだと気づいた後でも、映画に入り込ませるにはベティ・ダッシュに観客それぞれの夢に登場するような現実性を持たせなければならない。

ナオミ・ワッツの凡庸な容姿を含めた身体性と、ダイアンと同じ夢を抱いてきた同調性と、しかしダイアンではなくリタでもない現実が、ほかならぬナオミ・ワッツのベティ・ダッシュとして結実したとすれば、ミスキャストどころか、キャスティングの妙というべきだろう。

蛇足だが、ベティはいうまでもなくハリウッドの大スターにして名女優と呼ばれたベティ・デイビスである。ベティが憧憬して愛するスター女優のリタ/カミーラがリタ・ヘイワースを下敷きにしているから当然だが、ハリウッドスターに憧れて女優を目指した平凡な娘が、ベティ・デイビスになる夢が破れ、夢の女リタ・ヘイワースに捨てられたとき、はたしてどうするか。

もう一度、夢を見直すのである。これも俺たちがよく見る夢だ。一つの夢が破れ、二つ目の夢も消え、三つと続いていくとき、俺たちはもう一度、最初の夢から始めたいと思う。もう遅いことは知っているが、そう願う。その夢とは、もしかしたら成功したのではないかという現実の夢ではない。もう一度、あの甘美な夢、それ自体を描き直したいのだ。

夢の中の自分であるベティに戻りたい、というダイアンが狂気の一歩を踏み出すまでの混乱したなかで見る様々な夢は、眠っている間に見る夢だろうが、ダイアンが体験した現実に根ざしている。悪夢のような経験が、悪夢となって戻ってくるのだ。リンチは悪夢のような映像をつくる名手だが、たぶんそれは伏線的な迷路に過ぎないと思える。

ベティとして最初から始めたいという現実の夢は、実はダイアンが本当に見たい夢ではない。ベティとしてリタと出会った最初から始めたいという夢こそ、もう一度描き直したい甘美な夢なのだ。現実から妄想が生まれ、悪夢を形づくるが、悪夢のそこかしこに隠された記憶は本当の夢を、本当に見たい夢を打ち明けているのだ。

夢は夢を見る者によってつくられるのであれば、ベティ/ダイアン/ナオミは俺たちであり、俺たちが真実見たい夢とは、愛の夢なのだとこの映画は語っていると思う。俺たちの夢は現実に破れ、現実は夢を育むことはない。夢か現実か、どちらかだ。だが、夢であり現実となることがある。それが愛なのだといっているようだ。

幾重にも重なった夢と現実をナオミ・ワッツは見事に演じ分けた。そうではなく、七変化の如くではなく、夢と現実のベティ/ダイアンに少しずつナオミ・ワッツがいた。そのまま、アメリカンドリームを夢みて消えていった大多数の「負け犬」の記号にふさわしく、ナオミ・ワッツがベティ/ダイアンを演じていた、ということだろう。

当初は、TVシリーズとして企画されたようで、ジュリア・ロバーツやニコール・キッドマンといった大物女優がベティ/ダイアンを演ずる可能性はなかっただろうが、もし演っていたとしたらこれほどのスケールの映画にはならず、せいぜいが演技開眼した女優映画になっていたと思う。

この映画はナオミ・ワッツでなければならない。ナオミ・ワッツはその存在感の不足によって、夢と現実の狭間に生きて死ぬ、「平凡な娘たち」の存在感を最大限に現出させた。たまに、こうした演出や演技を超えた奇跡を見せてくれるから、やはり映画はたまらない。

ナオミ・ワッツはベティがオーデションを受ける場面で、迫真的だが凡庸な演技と想像力に溢れた演技の2通りを続けて演じて分けてみせる。ベティ/ダイアンの夢に、映画の夢が重なっているわけだ。つまり、まったく違う映画で異なった人物を演じながら、つねにその人であることを観客は意識してしまうのがスターだとすれば、スターではないナオミ・ワッツがこの映画の中でスターになるのだ。

デビット・リンチもナオミ・ワッツも、明らかにこの映画の夢を意識している。ベティ/ダイアンの夢を追うだけでなく、自分たちに共通の夢を、そこで物語を損なわず、物語に感応したかのように、自分たちの「白鳥の歌」を歌っているのだ。すべての科白と小道具に伏線を張り、意味を巡らしながら、同時にその物語をも包括した何かを提示する、もっと大きな物語の足場を築いている。

わずか2時間余で、これほど大きな謎を示した映画はやはり奇跡的といえるだろう。



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テッセラクト

2007-12-02 20:45:13 | レンタルDVD映画
これは参った映画だった。タイトルを挙げるには忍びないくらい。
新作で未見は『ダイハード4』『ロッキーファイナル』くらいしかなく、旧作から漁るしかなかったのだ。

オキサイド・バン監督はタイ映画界では有名らしく、CM界の鬼才から映画に進出したそうだ。バンコクの安ホテルに、イギリス人の麻薬ブローカーと深傷を負った女殺し屋、イギリス人の女性心理学者が泊まり合わせ、それにホテルの下働きをする泥棒少年や暗黒街のボスが絡む、という筋立てに惹かれて借りてしまった。

たけし映画のほとんどに感心しない俺だが、やはり、こんな映画を観せられると、たけしはやはり映画作家だと思う。CM界の俊英とかPVの大御所などが映画を作って、惨憺たる出来になるのはよくあることだが、その見本のような映画だった。

シナリオや絵コンテを書け、照明やカメラワークを熟知し、編集や音楽を選ぶことができ、それらスタッフと俳優たちをブッキングできる顔があっても、映画が作れるとは限らない。プロのお友達を集めても、映画ごっこに終わってしまうことがある。同じように、映画づくりのどの分野においてもまったくの素人が、同じく素人の友だちを集めて、まぎれもない映画を作ってしまう場合もある。

この映画の勘違いは、1分のCMを100本作ったら映画になると考えたところだろう。致命的なのは、それに疑問を持ったスタッフが一人もいなかったことだろう。アングルと照明に凝ることが、映画の完成度を高めるわけではない。映画は映像の集積ではない。1秒を10秒に30秒に1分に引き伸ばすことではない。逆ではないか。スローモーション撮影の多用が避けられているのは、そのためだ。それは俳優を、人間を人形と同じように扱うことにほかならない。

人間ではなくやたらカメラが動き、カットバックやスローモーションに忙しい。最小限の科白に留め、思わせぶりなカットを頻繁に挟むくせに、警官に問いつめられて慌てると、心臓のドキドキ音が効果音として使われる。時間軸が過去と未来を行ったり来たりするので、そのたびに壁時計が映される。

劇画のような映画や映画のような劇画はある。これは映画のような劇画をさらに映画にしたようなものだ。それは劇画でも映画でもなく、ただの表現未満、以前でしかないと思う。なまじ絵づくりの技術があるから、よけいに悲惨になる。「スタイリッシュな映像などという惹句が付いたら、迷作だと思うべきなのかもしれない。

バンコクといえば、ポールダンスの水着姿の女に貧しい少年、麻薬取引とギャングという、オリエンタリズムや人種差別意識のほうが、まだ高級に思えるほどの発想の貧しさ。クレジットには、制作側に日本人らしい名前をいくつか見かけた。イギリス・日本・タイの「山ちゃん」の合作のようだ。

襟を立てたポロシャツの首にセーターを巻き、コットンパンツにチノパン、デッキシューズを履いた「業界人・山ちゃん」は、日夜地球征服に暗躍しているのである。
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防衛省では守屋天皇

2007-12-02 20:10:45 | ノンジャンル
と呼ばれていたとNHKが報じていた。
嘘だろうと思う。そう思うが、○○天皇という畏怖と非難を込めた呼称は、たびたびメディアで使われる。どれも嘘だろうと思う。実際はそう呼ばれたことはないのに、その絶対的な権勢を表現するために、便利な呼称として記者が使ったのだと思う。

俺は天皇制には疑義がある。だが、天皇個人をそんな風な権勢の人と思ったことはない。多くの人もそうだろうと思う。なのに、なぜ○○天皇といわれ続けるのだろう。俺は天皇には、一定の敬意が払われるべきだとは思っていない。だが、何の根拠もなく、権勢欲に駆られた人の代名詞のように、○○天皇と呼称されるのはどうかと思う。

無闇な罵りは無闇な平伏につながるものだ。
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