コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

書評を読む絶望的な愉悦

2009-09-15 01:23:00 | 新刊本

あの「低俗」きわまる日刊ゲンダイ紙上で、「知性と教養」あふれると評判をとった匿名書評をまとめた「狐の書評」の続編。

『もっと、狐の書評』(山村 修 ちくま文庫)

はじめて知ったが、著者は大学図書館司書が本業のアマチュア書評家だった。短文の書評コーナーのため、あらすじや紹介には立ち入らず、ほとんど感想のみで、その本や文章の素晴らしさを伝える。その前提として、新刊や読者ウケをほとんど無視して、古書から少女マンガまで、自分が読みたい本のみを取りあげて譲らない。

杉本秀太郎 『平家物語』
金関寿夫/秋野亥左牟 『おれは歌だ おれはここを歩く』
那珂太郎 『木洩れ日抄』
倉田卓次 『続々々 裁判官の書斎』
霜山徳爾 『素足の心理療法』
佐藤研/小林稔訳 『新約聖書 福音書』

本書に採録された150編の一部である。私もほとんど読んだことがない本や筆者ばかりだ。多少本を読む習慣のある人にとっては、未知を思い知らされるという絶望的な悦びを味わえるだろう。もうそう多くの本を読むことも、丁寧に読み込むこともできない。だが、たとえ私が読まなくても、読まれるべき本はたくさんあり、どこかの誰かが読んでくれている。そんな愉快もある。

「狐の書評」には、「狐の書評」を読む独立した愉しみがある。書評の役割は、本や著者の紹介にはない。あたかも読んだ気にさせることにある。それは、その本の扉を開かせることに等しく、本を書く人、読む人へ、新鮮な敬意を抱かせる。読まない本や著者とも繋がれる気がする。いわば本読みの共和国を、一瞬現前させるのだ。そんな書評の書き手は、そんじょそこらにはいない。

(敬称略)



わたしの外国語学習法

2009-09-08 01:44:00 | ブックオフ本


探していた本をようやく見つけた。

わたしの外国語学習法(ロンブ・カトー 米原 万里訳 ちくま学芸文庫)

まずは、表紙裏の著者紹介から。

ロンブ・カトー(Lomb Kato)
ハンガリー南部ベーチ市生まれ。大学で物理と化学を専攻。21歳の時、この2つの学科で学士号を取得。しかし1930年代の不況のもとで、自己の専門を生かす職を得られず、外国語教師となる決意をする。当時彼女の知っていたたった2つの外国語であるラテン語もフランス語も教師たちは街にあふれている有様で、稼げる外国語(まずは英語)を身につけるために、彼女は独自の学習法を開発する。この(くわしくは本書参照)学習法のおかげで、彼女は5カ国語の同時通訳者、10カ国語の通訳者、16カ国語の翻訳者となる。90歳を過ぎた今も、新しい言語の習得に挑戦中。

英語学習法の類いの本を読むのが、私の数少ない趣味のひとつである。これらの本は、たいてい、「英語ができない」のは学びかたが間違っていたのであり、それは間違った教えかたをされたからだと説明する。また、英語(外国語)を学ぶためには、その目的が明確であるべきだとする。いいかげんな目的なら学ぶ必要はない、と突き放す本さえある。

いちいちごもっともなのだが、ではなぜ私は、英語学習法の本を読み続けるのだろう? いまさら学び直すには遅すぎるのに。その疑問に答えてくれる本が見つからないのである。

たしかに、私には英語を学ぶ明確な目的や必要はない。「英語ができない」のは結果というより、「英語ができる必要はない」という原因の裏返しなのかもしれない。

ロンブ・カトーは、ハンガリー語を母国語として、露・英・仏・独・ハンガリーの同時通訳をし、半日準備すれば、伊・西・日・中・ポーランドの通訳ができ、残る6か国語は文芸作品や専門書の翻訳「だけ」だそうだ。

スッポンから見上げた月のような隔絶した天才としか思えないが、ロンブ・カトーは、「誰にでもできる」「子どもより大人こそ学べる」と自らの「外国語学習者」の経験から断じている。

もちろん、ひとりよがりではなく、これまでの外国語学習法や最近の認知科学などの研究成果を踏まえてのことだが、「こうして私はできた」という「できかた」の工夫はあくまで彼女自身でつかんだものである。「学びかた」を学んでから、学んだのではなかったわけだ。

また、「外国語を学ぶ動機」については、外国語の専門家たちが集まってドイツで1年間にわたり会議が開かれたが、答えは出なかったと紹介している。学びの目的は明確に、とは自明ではなかったのだ。

よかった。英語(外国語)に限らず、何かを学びたいと思ったとき、その目的や利益が学ぶ意欲につながるという言説には、どこか納得できなかった。

資格や学位を取得して、より有利な職業に就いたり待遇を得たいというのは、学習の効果(結果)の説明としては成り立っても、学習の動機(原因)については、何も語っていないと思う。また、上昇志向と向上心は違うはずだし、昭和天皇が粘菌の生態を研究するとき、その向上心すら意識されないだろう。

学びたいことがよくわからず、それが自分にとってどう役立つかわからないのに、人は学びたいと思い、学ぼうとする。それはなぜか。やはり、よくわからない。

私たちが外国語を学ぶ素敵な理由を、ロンブ・カトーは明確に提示している。

私たちが外国語を学習するのは、外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終わらぬ唯一のものだからです。

アマチュアのバイオリン弾きやアマチュアの医師などを思い浮かべたとき、

アマチュアが社会的利益をもたらし得るのは、わたしの考えでは、外国語においてのみです。

楽しい考え方ですね。16か国語を身につけた、つまり16もの異文化に深く接した人が「唯一」と「おいてのみ」と2回も繰り返すのです。スッポンにも何となく月が一段と近づき、大きくなったように見えます。

では、ロンブ・カトーが開発した外国語学習法とは何か? その外国語で書かれた本を読むだけ。条件は、その人が興味を持つ分野の読書であること。

なるほど、これまでの類書にも同様なことは書いてある。ただ、違うようなのは、あれもこれものひとつではなく、ロンブ・カトーさんは、「これだけ」らしい(泥中のスッポン、ますます首を伸ばす。続く、かもしれない)。

(敬称略)









微笑み返し

2009-09-04 00:37:00 | ノンジャンル
ドアに郵便局の不在配達票が入っていた。亡くなったNさんの家族から、簡易書留が届いている。香典返しのカタログだなと思った。茶器セットとかタオル詰め合わせや体重計など、いろいろなギフトを選べるあのカタログだ。不要で趣味の合わぬものを贈られるより、たしかに合理的だと思うが、それだけ心尽くしの品には遠くなって、少し味気ないような気もする。もしかすると、結婚式の引き出物もカタログギフトになっているのだろうか。

郵便局員が届けてくれたのは、カタログではなく、一通の封筒だった。

開いてみると、型通りの御礼の挨拶に、図書カード5,000円が同封されていた。思わず、「あんたのカアチャンはやるねえ」とNさんに笑いかけた。Nさんは、たぶん、ウーロンハイだろう、大ぶりのグラスに口をつけて、正面からこちらを見ている。まだ呑みはじめたばかりで、眼が笑っている。家族や友人と呑んだときのスナップを拡大したものらしく、かなり粒子が粗いが、葬儀の遺影に使われ評判になったものだ。夫人が希望者を募り、後日、小さく額装(10×8cm)されて送られてきた。以来、私の机の上、時計の隣に置かれている。

「Nさん、あんたも苦笑するかもしれないが、この図書カードで、『1968』を買わしてもらうよ。ありがとう」



6,800円は持ち合わせていなかった

2009-09-02 19:50:00 | 新刊本
久しぶりに、新刊書店をのぞいたら、100万部を越えるベストセラーとなった村上春樹の『1Q84』(新潮社)が平台に山積みになっていた(平台に山積み? 何か変だな)。やはり、ノーベル文学賞候補の盛名と最近の「壁と卵」スピーチの影響かな? 

「私はいついかなるときも、壁にぶつかって潰れる卵の側に立つ」。
「マニフェスト」とは、こういう言葉を指す。「国民の目線に立った政治」などという、少し考えてみればテキトー極まる言葉ではないのだよ。自民民主公明のみなさん(テキトー極まる? かなり変だな)。

このところの1980年代つながりとしては、ちょっと読んでみたい気もするが、こちらのお目当ては、小熊英二の『1968』(新曜社)。『<民主>と<愛国>』以上の分厚さにたじろぐ。分厚いのはむしろ歓迎なのだが、値段が高いのではと心配したのだ。案の定、なんと6,800円! 上下2巻で13,600円! 100円特価本なら、136冊買える! 残念だが、今日は手が出ない。

『<民主>と<愛国>』ではほとんど無視された、68年を最盛期とする学生運動、新左翼から全共闘への軌跡を丹念に「読み込んだ」小熊が、どう歴史的な総括をするのか期待は大きい。

『<民主>と<愛国>』が話題を呼んだとき、「1968」年の先輩たちに勧めたところ、「民主も愛国も嫌いだな」と一笑に付されてしまった。民青と右翼を連想したのかもしれない。民主と愛国に違和感を抱き、どちらにも帰属意識を持たないというのではなく、むしろ、彼らはまさしく戦後民主主義の子であり、同時に自らの反米愛国的な感情を否定しなかった。それは、『<民主>と<愛国>』が解明した戦後の日本人の造型のひとつだったのだが。

(敬称略)