昨日14日のTVニュースを観ていて、「アレッ ?!」と思った。その前に一言すると、天皇制について、俺には特段の考えはない。親と反、いずれでもない、それだけはわかっているくらい。ついでにいえば、いわゆる「日の丸・君が代問題」についても同様で、この問題が教育の場で争われるのは、「教育上よろしくない」と思っている程度だ。つまり、これらについて、俺にはさしたる定見や信条はない、それを前提として、「アレッ ?!」について、少し書くわけだ。
天皇、皇后両陛下が映画「ロック」ご鑑賞
http://www.sanspo.com/geino/news/110813/gnj1108130501000-n1.htm
さて、天皇、皇后両陛下が三宅島大噴火と被災をテーマとした映画「ロック」を鑑賞した。そのTVニュースの流れは、記憶をたどればこうだった。劇場入口近くで両陛下をお迎えする出演俳優たちや犬のロックに、天皇陛下から皇后陛下の順番で、にこやかにお言葉をかけられる。おなじみの映像の後、画面が切り替わってから、「アレッ ?!」がきた。ちなみに今朝から昼までのTVニュースでは、この「アレッ ?!」はなかった(もちろん、全部のTVニュースをチェックしたわけではないが)。
公開中の映画を両陛下が鑑賞する場合、一般の観客といっしょに観るのかどうか、一般の観客を避けて別な上映時間を設けるのか、あるいはその折衷案として、一般客も入れるが、両陛下の席の近辺だけ、警備を含めた関係者で席を占めるのか、もちろん、俺にはわからない。が、たぶん、最後だろうと思う。というのは、両陛下が着席されるとき、その画面に一緒に画面に映ったのが、すべて中年男性ばかりで、すべてダークスーツにネクタイ姿だったからだ。
お盆休みの真っ最中、この炎暑の日中に、スーツの上下にネクタイまで締めて、劇映画を観にいく人が、たとえ一人でもいるとは考えられない。両陛下の着席が映されたとき、ちょっと見、20人近くのスーツネクタイ男が画面に入っていた。席に付かれる両陛下を前から撮っていたから、両陛下の後ろから、カメラなど報道陣の姿を見返している視線も、いくつかあった。「アレッ ?!」はここで起きた。
ちょっと巻き戻すと、両陛下が少し前屈み横歩きに座席へ歩き、着席されるまで、スーツネクタイ男たち全員は、座ったままだった。誰一人、立ち上がって、お迎えする姿はなかった。スーツにネクタイと、真夏に威儀を正している風なのに、座ったままだった。この男たちは、いったい何者なのか。たまたま同席してしまった一般客なのか。自分の財布から金を出して、前売り券や入場券を買い求め、三宅島大噴火にみまわれた犬と島民の感動の物語を観にきたのか。そうではあるまい。
もし、俺が一般客としてまぎれこんでいたとしたら、どうしていただろうか。たぶん、短パンにTシャツ姿だろうが、気がつけばすぐに立ち上がり、両陛下が席に付いたのを確認してから、また座ることだろう。そうしない人がいても別に気にしないが、それくらいは国民統合の象徴である人への礼儀だと思うからだ。かといって、席を立たない人を非礼だと咎める気持ちはない。席を立たない人も国民の内に含んで、統合の象徴だからだ。
いや、国民統合の象徴云々は、見栄を張って嘘を云ったような気がする。それほど深くは考えていないし、考えたいわけでもない。反射神経のひとつのようなものかもしれない。たとえ、入場してきたのが、菅首相一行であろうと、同様な趣旨の公務であれば、俺は席を立って迎えることにやぶさかではない。イギリスのエリザベス女王やアメリカのオバマ大統領、韓国や中国の元首であっても、俺は席を立って迎えるだろう。
それが一般人としての態度と姿勢であり、だからこそ一般人なのだろうと思う。映画館で席に座ったまま、両陛下が着席するのを眺めていた、スーツの上下にネクタイまで締めた男たちは、だからこそ、一般人ではないと思えるのだ。一般人でなければ、いったい何者なのか。何者でもないのかもしれない。スーツネクタイ男たちは、何者でもないように、そこにいて、何者でもないかのように、ふるまった。
ご高齢にくわえご病気を抱えているのにもかかわらず、この間、3.11被災各地の慰問を精力的にこなし、国民が忘れつつある三宅島大噴火被災の三宅島島民を激励するために、映画館に出向かれた天皇皇后両陛下に対して、立ち上がってお迎えしてから座る、そのわずか数分の敬意やいたわりすら示さない。いったい、この男たちは何者なのか。何者でもない、名前も顔もない者たちだ。
これは比喩ではない。影のようなその輪郭をかいま見せたのは、14日のTVニュースの一瞬だった。今日15日のニュース番組でも、両陛下の映画鑑賞は報じられているが、両陛下がすでに着席している場面しか映されていなかった。「アレッ ?!」は、なかった。すでに消されていた。ならば、「アレッ ?!」を消した、何者でもない、名前も顔もない者がいるのである。