コタツ評論

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封切りを観た人は、きっと泣いたはず

2011-08-03 03:23:00 | レンタルDVD映画


フランス映画「アントニー・ジマー」とハリウッドがリメイクした「ツーリスト」を観比べてみた。

ハリウッドに乾杯! もとい、完敗。アレクサンダー・ピアースはアントニー・ジマーにはるかに及ばず、ハリウッドリメイク作品はたいていスカに、また有力な例証が加わった(冷笑)。



キアラ(ソフィ・マルソー)とエリーズ(アンジェリーナ・ジョリー)のハイヒール対決の軍配は微妙だった。歩く膝下しか見せずに引っ張るキアラの登場シーンはいけるのだが、その靴がピンヒールではなく、ソフィ・マルソーの膝下がなかなか太いのは、やはり減点ものだろう。

その点、最初からスタイルを顕わにするだけインパクトには欠けるものの、ピンヒールでパリの街頭を歩くアンジェリーナ・ジョリーの細い足首には加点される。
ただし、ソフィ・マルソーに同情すべき点はある。パリの石畳の舗道は、とてもピンヒールでは歩けるものではないからだ。歩けば足を痛めたあげく、ヒールを折ること間違いない。つまり、フランス映画としてはあり得ない設定なので、ヒールは太いのだ。

しかし、二人の決定的な点差は、ヒールや脚線でついたのではない。ソフィ・マルソーより、浅丘ルリ子と比較するほど、アンジェリーナ・ジョリーの化粧は濃かったのである。これ以上濃い化粧は、歌舞伎の隈取りにしか見られない。

平凡なツーリストが国際警察機構とロシアマフィアから追われる大物経済犯と間違われる、という巻き込まれ型追跡ドラマの舞台として、ヨーロッパの代表的な観光地であるベネチアとカンヌのそれぞれが選ばれた。このロケハン対決では、明らかにカンヌの勝ちである。

たとえば、列車で出会った男女が宿泊する超一流ホテルのスイートルームが、ベネチアのホテルの場合、丸山明宏か三島由紀夫の部屋のリビングのように、ゴテゴテと装飾過多のインテリアで、羨望の溜息どころか胸焼けのゲップが出る代物だった。

カンヌのホテルは、豪華なスイートルーム感にはいささか乏しいものの、ボーイに部屋を案内され、バルコニーに出て、陽光輝く海岸が見渡せるまでの、移動視線を邪魔しない控えめな調度とシンプルなインテリアが好ましかった。

「祖母の下着を見せて金を稼ぐイタリア人」。ルネサンス以来の豊かな歴史遺産を受け継ぐイタリア観光地へ有名なジョークにならえば、フランスは姉の寝室を見せたというところか。

厚化粧のアンジェリーナ・ジョリーが装飾過多のスイートルームに気取って立っていると、いっそう「祖母の下着」じみてしまった。一方、薄化粧のソフィ・マルソーの場合、謎の美女というよりセレブマダムくらい軽量級ではあったが。

この豪華ホテルのバルコニーのシーンでは、冴えないツーリストと謎の美女の夢のようなキスシーンが事件の発端となるわけで、ホテルからの眺めが重要な意味を持つ。陽光きらめくカンヌのビーチフロントに比べ、しょぼい運河が見えるだけのベネツィアの分が悪すぎたし、キスを交わす背後の夜景もベネツィアは暗すぎた。

熱海のように通俗なカンヌより、運河の古都ベネツィアのほうが、ずっとロケーション・ハンティングには分がありそうだが、出演すれば当たるスター映画に流されたスタッフの怠慢としか思えない。つまり、カンヌの勝ちというより、ベネツィアの負けということだろう。

ジョニー・デップはずんぐり太り気味だし、アンジェリーナ・ジョリーは浅丘ルリ子だし、ポール・ベタニーは線が細すぎるし、ティモシー・ダルトンは客演した松方弘樹のように浮いているし、「ツーリスト」の俳優陣は総崩れ。

三つ巴に睨み合う均衡を破る、クライマックスの射撃命令はつじつまが合わないし、偽のアレクサンダー・ピアースをつくる蛇足は加えているし、オリジナル脚本を改悪したとしか思えない、でたらめなストーリー展開には、たとえ「アントニー・ジマー」を観ていなくても呆れてしまうはず。

もしかすると、「ツーリスト」という映画は、ハリウッドのリメイク作品は必ず駄作になるというメタなコメディ映画なのかと思ったくらい。「アントニー・ジマー」は、自信を持ってお勧めできる上出来のサスペンス作品だが、笑いたいのなら、迷作の「ツーリスト」を断然お勧めする、噴飯物の笑いだが。

(敬称略)
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芥川賞はflowersに

2011-08-02 00:06:00 | ブックオフ本


万城目学を教えてくれた若い本友だちから、『パーク・ライフ』(吉田 修一 文春文庫)を借りて読了。表題作と「flowers」という中編小説が2篇収められた177頁。薄い上に、平易な読みやすさのおかげで、読み終わるのに2時間はかからなかった。「PARK LIFE」と「flowers」と表記を合わせたほうがよかったはずだが、『パーク・ライフ』は芥川賞受賞作らしいので、タイトルを変えるわけにもいかなかったのだろう。

昼どきの日比谷公園で「スタバ女」と僕がカフェモカを飲みながら、少し話をするというだけの話だ。小説的な感興はあるようでなく、ないようであるのかもしれないが、私には、何がおもしろいのか、あるいは、どこがおもしろくないのか、いずれもよくわからなかった。ほとんど感興を覚えないのに、100頁をペロペロ読めたのは不思議。ちょっと、狐に鼻をつままれたような気分(狐に鼻をつままれた人間なんて、人類史上、2人くらいしかいないだろうに、なんという比喩だろう)。

ただひとつ。スターバックスでコーヒーを飲む女性たちを揶揄しながら、スタバのコーヒー自体はわるくないと思っているらしい、「僕」や「スタバ女」の前提評価には納得できない。ドトールやベローチェ、マックなどに比べれば、たしかにスタバはずっとマシなコーヒーを出すが、コーヒーとしてマシとはとてもいえない。まともなコーヒーなら、たとえば、銀座線田原町駅(たわらちょう)近くの「純喫茶みち」(台東区西浅草1-7-18)の白いカバーのかかった古びたソファに座ればよい。いまの季節なら、アイスコーヒーを頼むとよくわかる。マシーンではなく人手が淹れたコーヒーの美味さが。

残念ながら、この本はパスだなと閉じようとしたが、ちょうど人身事故で電車は立ち往生している。ほかに手持ちは、竹内好監修の『論語』しかない。1960年代の本なので、活字が小さく、紙が黄ばんでいて、車内灯では読みにくい。それで、次の「flowers」をパラパラしはじめた。20分ほどして運転再開し、下車駅に着いてからも、ホームのベンチに座って読み続け、一気に読み終えた。若き本友だちも、「自分は、「flowers」のほうがおもしろかったのですが」と云っていたっけ。

初出勤の朝、妻の鞠子に見送られ、僕は帝国ホテルから仕事場へ向かった。

という冒頭から、おいおい、また『パーク・ライフ』みたいに、アッパーミドル人種が登場する作品かとうんざりしかけたが、日比谷公園前の帝国ホテルから出勤した「僕」の仕事場は、飲料水の配送会社。まだ街の至る所に自動販売機が普及する以前、会社や商店などに重い清涼飲料水やお茶やコーヒーを運ぶ月給25万円の配送トラックの運転手が「僕」の仕事だった。「僕」の前職も、九州の田舎の墓石会社勤めというから、「パーク・ライフ」の「僕」と比べると、ずいぶん下層という意外な展開だった。

望月元旦という先輩配送ドライバーの助手となった「僕」が、とらえどころのない元旦の非倫理的な行動に振り回されつつ、次第に惹きつけられながら、最後に踏み止まる会社のシャワー室の場面が迫真的だった。ちょうど今年のように、真夏日が連続10日も続いたある日、重い飲料水のケースの積み下ろしから解放されたドライバーたちが、ひと汗流す暗く熱気のこもったシャワー室。タオル一本ぶら下げて佇む裸の男たちと土下座をする元旦。その顎を蹴り上げて血を滴らせ、リンチの口火を切ったのは、「僕」の脚だった。

捨ててきた故郷。喜劇女優志願という別な道を歩きはじめた妻。故郷から訪ねてきた従兄弟の孝之介。惨めな境遇の職場の同僚。さまざまな離間を一気に跳び超えようとした「僕」の濡れた裸足。そこに、自分と元旦を救う「蹴りたい背中」があった。「flowers」を注視する3人の男の静けさをたたえた和合の場面から続く、それはひとつの官能的な「友情」の結末に思えた。

(敬称略)
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小松左京死す

2011-08-01 02:46:00 | ノンジャンル


画像検索してみると、近影は別人かと思うほど、老顔に変わっていた。SF作家としては、とうに過去の人だろうが、「日本沈没」や「復活の日」の小松左京さんが亡くなる、といった「訃報」は、小松左京のファンにとっては心外だろう。小松左京はカラカラ笑うかもしれないが。これが、渡辺淳一が死んだとき、「失楽園」や「愛の流刑地」の作家死す、と報じられれば、渡辺ファンは納得し、渡辺淳一は心外だろうが。俺は小松左京ファンというほどではなかったが、映画化されたおかげで有名になった、「日本沈没」や「復活の日」が小松左京の小説としては、上出来の部類ではなかったことは覚えている。

数多い小松左京作品の中で、俺の印象に残っているのは、『日本アパッチ族』だ。ほかに、もう書名やタイトルは忘れてしまったが、小松左京の短編はずいぶん読んだ。とあるヨーロッパ小国の田舎を旅したら、村民が日本人と知った私にやたらと親しみを寄せる、そして必ず心配そうに、「朱鷺は元気か?」と訊ねてくる。心からの歓待に喜びながらも不思議に思っていると、その村にも朱鷺と同様な絶滅危惧種の鳥がいて、という怖い話などは今も覚えている。

小松左京が元気な頃には、星新一と筒井康隆を両極とすれば、その間に、半村良や平井和正、眉村卓、広瀬正、都筑道夫、光瀬龍など多彩なSF作家が綺羅星のごとく輝いていて、次々に好短編を発表していた。その中心は、小松左京で、もっとも安定した質の高い作品を書いていたように思えた。

エッセイも達者だった。冬の深夜、飼い猫の出入りにドアボーイとされてしまった小松左京が、マンションベランダのドアから首を出したまま、冷たい風のせいか、なかなか出ようとしない猫の尻をつい足で押したところ、その鋭い爪と歯でいきなり襲いかかられ、帚で反撃しているところに、騒ぎを聴きつけて起きてきた家人が、顔面血塗れでようやく立っている小松左京を無視して、「まあ、大変、あなた、OOちゃんになんてことするの!」と猫に駆け寄ったのを見て激怒した話など、大笑いしたものだ。

俺にとっては、短編小説の名手で、闊達明朗な知識人、という印象の人だった。3.11について、とくに福島第一原発の事故について、この人の考えを訊きたかった。何か書き残しているだろうか。合掌。

(敬称略)
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