俳句を始めて、表現と芸術について思うことがいろいろある。
これまで「演じる」ということに関わってきた。
プロが演じる芝居と、子どもたちが学ぶときに「何かになってみる体験」として演じることは、どこかで繋がってはいるものの、違うものと感じてきた。
俳句を始めて、その違いが明確になってきたように思う。
俳句はそれぞれ自分の体験や感性に基づいて表現される、その人にとって唯一無二のものである。
けれど17文字しかないので、自分の言いたいことをすべてそこに盛り込むことはできない。
伝わりにくい。
その17文字が芸術となるには、多くの人に共感を与えると同時に、作者ならではの創造性があることが求められる。
つまり芸術かどうかを決めるのは作者ではなく、それを見る他人だということ。
古池や蛙飛び込む水の音
言わずと知れた芭蕉の名句。
中学校の国語の授業で習ったように思う。
この句を見ると、蛙の飛び込む水の音が聞こえ、古池の景色が浮かぶ。
それはお寺の庭かも知れない。そうでなくても木々に囲まれたそれほど大きくない池だろう。
日が照っているが、池には木漏れ日。
蛙の飛び込んだあたりは、どちらかといえばやや暗い。
蛙は池のふちから出ている石から飛び込んだに違いない。そんな音だ。
その音からかえって静寂が広がる。
落ち着いた穏やかない気持ちだが、少し寂しさもあるかもしれない。
この17文字から、情景のみならず心理までもが見えるように思える。
人によって思い描く情景は違うかもしれないが、多くの人にとって17文字以上のゆたかな情景が広がるのは間違いないだろう。
17文字しかないからこそ、共通点をもちながらも人によって異なる情景が味わえるとも言える。
これが名句と言われ、芸術になる。
しかし、もし多くの人が共感しても「ありきたり」であれば芸術とは言わない。
共感を呼ぶだけでなく、その人ならではの何か(創造性といわれるもの)がないと、芸術にはならない。
毎週、新聞に俳句が掲載され、それを読むのが楽しみになっている。
四人の選者がいるが、この四人が同じ人の句を取りあげることは少ない。あったとしても二人がたまに重なる程度。四人一致は見たことがない。
二人一致も短歌より頻度が少ない。短歌は31文字なので、俳句よりは省略が少ないから、同じ情景を描きやすいのだろう。
どの俳句が良いかは、自分の体験や感性によって異なる。
俳句の選者の中に、戦争体験や平和を願う俳句をよくとりあげる人がいる。その選者が幼少期に満州から引き揚げてきたということを知ると、なるほどと思う。
自分の体験、感性、思いを人に伝わるように句にする。
そのために技巧があり、技巧を知ると他の人の句も分かるようになってくる。
しかし、本質は技巧ではなく、伝わり受け止めてもらえるものがその句にあるかどうかなのだ。
私には言いたいことがあるが、それを句にして伝える力はまだあまりない。
でも、今の私にとってはまず表現してみることが大事。
表現してみることで分かることがある。
自分について、他人について、社会について。
言いたいことをとにかく句にしてみる。
それを句会で読んでもらう。
他の人からの感想を聴く。
どうしたらもっと伝わるかということを教わる。
それが大事。
だから毎回自分なりに冒険をしている。
「これは伝わらないかも」と思うことを敢えて句にして、どうすれば伝わるかを探っている。
「演じること」も表現ということでは同じだと思う。
稚拙に関係なく、自分の体や言葉使って表現するということが尊い。
その尊さを表現するためには、他人の表現を受け止める場をお互いつくることが必要だ。
演じる尊さと芸術であるかどうかは関係ない。
素人の「演じる」がどのようなものであれ、本人自身から出ている表現なら尊い。
けれど身内以外の人に訴える何かがなければ、芸術にはならない。
芸術かどうかは他人の評価。
ゴッホだって、作品を保管し、それを評価し、他に広めてくれる人がなければ、誰にも知られず埋もれていたかもしれないのだ。生前は1枚しか売れなかった。
ここでプロのお芝居に思考が跳ぶ。
プロのお芝居は芸術と言えるのか。
多くの人が、高いお金を払って観に行きたがるお芝居だからといって、必ずしも芸術ではないようにも思う。
逆に、人の入りは少ないけれど、これは絶品と思えるお芝居もある。
これについては、また別の日に書いてみたい。
これまで「演じる」ということに関わってきた。
プロが演じる芝居と、子どもたちが学ぶときに「何かになってみる体験」として演じることは、どこかで繋がってはいるものの、違うものと感じてきた。
俳句を始めて、その違いが明確になってきたように思う。
俳句はそれぞれ自分の体験や感性に基づいて表現される、その人にとって唯一無二のものである。
けれど17文字しかないので、自分の言いたいことをすべてそこに盛り込むことはできない。
伝わりにくい。
その17文字が芸術となるには、多くの人に共感を与えると同時に、作者ならではの創造性があることが求められる。
つまり芸術かどうかを決めるのは作者ではなく、それを見る他人だということ。
古池や蛙飛び込む水の音
言わずと知れた芭蕉の名句。
中学校の国語の授業で習ったように思う。
この句を見ると、蛙の飛び込む水の音が聞こえ、古池の景色が浮かぶ。
それはお寺の庭かも知れない。そうでなくても木々に囲まれたそれほど大きくない池だろう。
日が照っているが、池には木漏れ日。
蛙の飛び込んだあたりは、どちらかといえばやや暗い。
蛙は池のふちから出ている石から飛び込んだに違いない。そんな音だ。
その音からかえって静寂が広がる。
落ち着いた穏やかない気持ちだが、少し寂しさもあるかもしれない。
この17文字から、情景のみならず心理までもが見えるように思える。
人によって思い描く情景は違うかもしれないが、多くの人にとって17文字以上のゆたかな情景が広がるのは間違いないだろう。
17文字しかないからこそ、共通点をもちながらも人によって異なる情景が味わえるとも言える。
これが名句と言われ、芸術になる。
しかし、もし多くの人が共感しても「ありきたり」であれば芸術とは言わない。
共感を呼ぶだけでなく、その人ならではの何か(創造性といわれるもの)がないと、芸術にはならない。
毎週、新聞に俳句が掲載され、それを読むのが楽しみになっている。
四人の選者がいるが、この四人が同じ人の句を取りあげることは少ない。あったとしても二人がたまに重なる程度。四人一致は見たことがない。
二人一致も短歌より頻度が少ない。短歌は31文字なので、俳句よりは省略が少ないから、同じ情景を描きやすいのだろう。
どの俳句が良いかは、自分の体験や感性によって異なる。
俳句の選者の中に、戦争体験や平和を願う俳句をよくとりあげる人がいる。その選者が幼少期に満州から引き揚げてきたということを知ると、なるほどと思う。
自分の体験、感性、思いを人に伝わるように句にする。
そのために技巧があり、技巧を知ると他の人の句も分かるようになってくる。
しかし、本質は技巧ではなく、伝わり受け止めてもらえるものがその句にあるかどうかなのだ。
私には言いたいことがあるが、それを句にして伝える力はまだあまりない。
でも、今の私にとってはまず表現してみることが大事。
表現してみることで分かることがある。
自分について、他人について、社会について。
言いたいことをとにかく句にしてみる。
それを句会で読んでもらう。
他の人からの感想を聴く。
どうしたらもっと伝わるかということを教わる。
それが大事。
だから毎回自分なりに冒険をしている。
「これは伝わらないかも」と思うことを敢えて句にして、どうすれば伝わるかを探っている。
「演じること」も表現ということでは同じだと思う。
稚拙に関係なく、自分の体や言葉使って表現するということが尊い。
その尊さを表現するためには、他人の表現を受け止める場をお互いつくることが必要だ。
演じる尊さと芸術であるかどうかは関係ない。
素人の「演じる」がどのようなものであれ、本人自身から出ている表現なら尊い。
けれど身内以外の人に訴える何かがなければ、芸術にはならない。
芸術かどうかは他人の評価。
ゴッホだって、作品を保管し、それを評価し、他に広めてくれる人がなければ、誰にも知られず埋もれていたかもしれないのだ。生前は1枚しか売れなかった。
ここでプロのお芝居に思考が跳ぶ。
プロのお芝居は芸術と言えるのか。
多くの人が、高いお金を払って観に行きたがるお芝居だからといって、必ずしも芸術ではないようにも思う。
逆に、人の入りは少ないけれど、これは絶品と思えるお芝居もある。
これについては、また別の日に書いてみたい。