徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

今日は「大寒」・・・・

2007年01月20日 08時30分03秒 | 今日は、何の日

小寒は、1月5日頃で寒さが加わる頃という意味で、いわゆる「寒の入り」のことです。
小寒後15日で大寒に入り、大寒後15日で寒が明けます。
小寒から節分までが寒の内と呼ばれています。

寒の内とは、1年の内最も気候の寒い季節のことで、暦の上の寒の内が実際に気温の最も低い季節なのです。

                

大寒は二十四節気のひとつで、この頃から立春までの期間を指す事もあるようです。
二十四節気は、二至(冬至と夏至)二分(春分と秋分)がまず考えられ、その後に八節(二至二分に立春・立夏・立秋・立冬をくわえたもの)が出来たと考えられています。

八節が細分化され、二十四になったのは、1年が「十二ヶ月」であることから季節と歴月を関連づけるためと考えられます。

大寒が1年で一番気温が低く、寒さの厳しいころであるということは、逆に言えば、これからは、段々暖かくなるということです。

武道ではこの頃寒稽古が行なわれ、寒気を利用した食品(凍り豆腐、寒天、酒、味噌など)が仕込まれる時期にもあたります.

今年は暖冬で、まだ身を切るような寒さはありません。
ちなみに、今年に入って最高気温は、平均10度くらいあり、本来の平均気温は、10度~8.7度ですが、それを下回ったのは3日しかありません。

最低気温に至っては、平均最低気温より下回った日は2日しかなく、今年に入って4度~5度くらいあり、昨年の今頃は、氷点下の日もあり、1度から3度くらいのことを思えば、比較的暖かい日が続いていますが、寒さはこれからなのでしょうか?


「星野ジャパン」の誕生・・・・

2007年01月19日 10時04分33秒 | 野球・タイガース

北京五輪野球の日本代表の監督星野仙一氏が就任を受諾したというニュースが流れています。
星野氏の代表監督は就任は、既に代表編成委員会でアマ側から人選を一任されていたプロ側が内定し、事実上決まったということです。
25日に都内で開かれる日本代表編成委員会を経て、星野氏の記者会見が行なわれます

            

2012年のロンドン五輪で実施競技から外れた野球の五輪復活に向け、北京は重要な大会になると思われます。
また、アテネ五輪の時のような「1球団2名」という条件付ではなく、ベストメンバーを組む方針とのことですが、北京五輪が開催される8月は、ペナントレースが佳境に入る時期でもあり、夏休みで観客動員が多い時期ということもあって、12球団の意志の統一を図るのにはかなり難しいようです。
このことについては、阪神のオーナーが力説して、各球団に要請するものと思われます。
とも角、星野氏の実績やリーダーシップは、万人の認めるところでありますが、星野氏が充分その力を発揮できる環境を整えたいものです。

さらに心配なのは、健康面です。 かの長島氏、王氏の例もあることで、金メダルというプレシャーが、星野氏を襲ってくることは必死です。

今年の11月~12月に台湾で行なわれるアジア予選からではなく、日本、中国、キューバ、アメリカが参加して今年の8月に北京で行なわれるプレ五輪から星野氏が指揮を執るようです。
これからの星野氏の動向に目が離されません。


将軍をくじ引きで決めた!!!

2007年01月18日 10時29分57秒 | 今日は、何の日

1月18日は、1467年には応仁の乱1657年には振袖火事がありました。
そして1428年には、室町幕府の4代将軍、足利義持が亡くなり翌19日に後継者を決める”くじ引き”が行なわれたそうです。

  足利義持

その”くじ引き”は、三条八幡宮の神前で行なわれました。
4代将軍義持には、子供がなく、候補者は義持の4人の弟でした。
この4人の弟は全員出家していましたが、当選したのは青蓮院住職の義円でした。
義円は早速還俗して義宣と名を改めますが、「義宣では世を忍ぶになってしまう」といって義教(よしのり)と改名しました。

この義教は、非常に過激な人で、多くの大名が些細な罪で殺害され、課税に従わない商人も死罪され、この暴君の恐怖政治におののきます。
が、赤松密祐が饗宴を開くという名目で殺害し、以降室町幕府の権威は低下してゆきます。

”くじ引き”で決めるというと、非常にいい加減なもののように思われますが、実はそうでもありません。
現在でも地方の議員選挙で同票になったとき、”くじ引き”で当選者が決められています。
また、サッカーのワールドカップでもPK戦でも決着がつかない場合、”くじ引き”で勝者を決めることとなっています。

実は天皇を決めるのにも、似たようなことが行なわれました。
文徳天皇の時、皇太子を決めるのに惟喬親王派と惟仁親王派が激しく対立し、どちらかに決められない状態であったため、競馬と相撲を行なって勝ったほうを皇太子にすることとなり、勝ったのが惟仁親王で、後の清和天皇です。

また、安徳天皇が平氏とともに西海に行った後、後継の天皇を誰にするのかについて、惟明親王、尊成親王、北陸宮(以仁王の遺児)の3人が候補にあがり、決着が付かず、後白河法皇の指示により、”占い”が行なわれ、尊成親王が後継者と定められました。後の後鳥羽天皇で、古来”くじ引き”というのは、人間の判断では決着つかないことを神意によって決めるため行なわれたのです。


入札談合は、江戸時代からあった

2007年01月17日 16時01分06秒 | 独り言・社会・ニュース

昨年の暮れ、入札談合事件によって、わずか2ヶ月の間に、15人もの知事や市長ら地方の首長が逮捕されたが、これは氷山の一角ではないかと疑いたくなります。
そもそも2003年に官製談合防止法が施行されたのに、護民官であるべき知事らが、堂々と違反していたのでは、時代劇の悪代官顔負けです。

入札制度が始まったのは、16世紀末といわれているので、江戸幕府が出来る以前からあったことになります。
徳川幕府は、江戸城を中心に江戸の町造りのために「天下普請」と称して、各藩に負担させましたが、各藩は領内に限らず、様々な業者に築城、街道整備、水路工事、橋梁建設など各種の普請、つまり建築土木工事を請け負わせたので、各業者が蟻のように群がったのは想像できます。

   今日の絵は”函館” F8号

天下普請は江戸だけではなく、名古屋、京都、伏見、駿府など徳川家の城郭と街づくりが主な仕事で、大名は石高に応じて人足を出さねばならず、大きな負担になったことは間違いありません。
この普請の出来不出来が、徳川将軍家の忠誠心をはかる尺度であるため、限られた日数で、ギリギリの費用で出来る業者に任せることになり、普請請負業者に”丸投げ”するようになってきます。

そこで権力者に近くて賄賂を渡せたりする大手が強くなりましが、「こっちにも廻して下さい」となり、そこで幕府や藩の中枢に顔が利く業者が集まって談合して、持ち回りにしたり、くじ引きにしたりするようになったそうです。

ここに”根回し”の構図が生まれてきます。
やがて、藩内の経済基盤は商人が担うようになり、知恵と金を出す商人たちによって、諸国の普請が操られるようになるのは、当然の成り行きです。
そこに腐敗の構造が芽生えてくるので、幕府は寛文4年(1661年)業者に談合を禁じる命令を出しています。

どんなに時代が進んでも、江戸時代のままと言うことなのでしょうか?
「美しい日本」を唱えると同時に「美しい日本の心」であって欲しいものです。


福岡市になぜ「博多駅」が・・・

2007年01月16日 11時27分47秒 | 鉄道のよもやま話

福岡市のJRには、なぜ「福岡駅」がなく、「博多駅」なのでしょうか?

そもそも博多とは、古代につくられた大宰府の外港で、中世には堺とならぶ商業都市として栄えました。
近世になって、この地に、はいってきた黒田氏が、那珂川を隔てた博多の対岸に築いた城下町が福岡です。
以後、博多と福岡は川を挟んだ双子都市として発展し、明治維新を向かえました。

明治22年(1889年)に市制町村制が施行され、博多と福岡は合体して一つの市となりましたが、問題は市名をどうするかで意見が真っ二つに分かれました。
「博多」の地名が全国的に知名度が高かったことや、博多には有力な商人が多かったこともあって「福岡県博多市」に決まりかけましたが、最終的に福岡県が命令によって「福岡県福岡市」となってしまいました。

その同じ年に鉄道が開通し、駅は博多側に設置されましたので、せめて駅名だけでもということで、駅名は「福岡」ではなく「博多」となったというのが、「博多駅」誕生のいきさつであるようです

  JR 博多駅

その後、市名を「博多市」にとか、あるいは駅名を「福岡駅」に改名すべきであるとかいう論争が何度も起きたのですが、結局そのまま現代に至っています。
そして現在、一つの都市の中で「博多」と「福岡」という二つの地名がうまく使い分けられているのです

ちなみに大正時代に開通した現在の西鉄は、そのターミナルを「福岡駅」と名付けられています。


"テレビカー”の変遷

2007年01月15日 14時31分39秒 | 鉄道のよもやま話

最初のテレビカーは、昭和30年(1955年)に京成電鉄が特急「開運号」に試験的に取り付けられましたが、当時は放映時間が終日ではなく、車内で見る機会が少なく、それ以降は、取り付けられることがありませんでした。

しかし、関西初のテレビが設置されたのは、京成電鉄から1年後の昭和31年(1956年)に京阪電鉄の特急1882系、1883系でした。

  

当時は、まだ家庭にテレビがなく、多くの人が街頭テレビを楽しんでいた時代に、電車内で座席に座りながら見れるとあって人気は高く、東京と関西人の違いがここでも表れて随時特急全車両に設置されていきました。

昭和46年(1971年)には、カラーテレビが、平成4年(1992年)にはBS放送が、そして平成18年(2006年)には地上デジタル放送が放映されるようになりました。
一部の特急車両には、32型の液晶モニターを搭載する車両も表れ、大阪・京都間のJR、阪急との競争に一歩リードするようになりました。

   地上デジタル放送 32型液晶テレビ

JR東海371系、JR西日本681系の各グリーン車、小田急20000系のスーパーシートなどには、小型の液晶テレビがあり、広義のテレビカーと云えますが、現在は撤去されています。


「アトリエ舞展」開催のお知らせ

2007年01月14日 09時10分46秒 | 芸術・水彩画

昨年に引き続きまして、今年も「アトリエ舞展」が開催されます。
「アトリエ舞」は、僕が通っている水彩画教室です。

    

そこに通って居られる生徒の皆さんの作品を展示しております。
皆さんの日頃の腕前をご披露する機会で、張り切って製作した個性溢れる作品を展示しておりますので、お誘いあわせの上、何卒ご高覧下さい。

 日時  平成19年1月18日(木)から1月23日(火)まで
      午前10時~午後5時まで 最終日は午後4時まで

 場所  塚口さんさんタウン三番街5階
       ギャラリー・スペースピポット
      尼崎市南塚口2丁目1-3-501
      阪急電車 神戸線 塚口駅下車 南口すぐ

              

 尚、「アトリエ舞」では、生徒さんを募集しています。
    真居 令子先生のご指導のもと、小学生からお年寄りまでの生徒さんが和気     
    藹々と製作に励んでいます。
    無料体験入学チケットを「アトリエ舞展」で配布していますので、ご興味のあ
    る方は、ドシドシお越し下さい。
    教室は、毎月第2、第4火曜日、金曜日、土曜日の午後2時~5時まで開いて
    います。
    教室の住所は
    尼崎市東難波町3丁目5-1 エトワール21 103号
    連絡先 06-6482-1649 主宰 真居 令子

 今日は、「アトリエ舞展」と「アトリエ舞 教室」の宣伝でした。


「映画検定」と「日本常識力検定」

2007年01月13日 11時47分28秒 | 独り言・社会・ニュース

色々な検定や資格が流行っています。
検定と資格とは、どう違うのでしょうか?
検定とは、一定の基準に基づいて検査し、合否や等級などを決めます。例えば英語検定などがそうです。
資格とは、あることを補うのに必要な地位や能力、ライセンスを取得するもので、例えば税理士などがあります。

今、その中でも検定が、民間団体などが中心に色々な種類のものがあります。
特にユニークなものとして、京都検定などの郷土を中心とした検定やタイガース検定とか、時刻表検定など趣味的な要素が大きなものがあります。

  
   今日の絵は、イタリア・薄暮のベネチュア F8号

「映画検定」というのがあります。
昨年12月に第2回目が実施されました。
主催は、日本で最も長い歴史と権威を誇る映画雑誌の「キネマ旬報社」です。
検定内容は、1級から4級までのレベルで実施されます。
その根底には、映画はその時代や民族や国の世相や文化、思想、歴史などを映し出す優れた芸術であるということから、その文化を守ろうとするもののようです。

「日本常識力検定」というのもあります。
主催は、日本常識力検定協会ですが、その協会の主体がどこなのか不明です。
「常識」という言葉、”健全な社会人なら持っているはずの、ごく普通の知識、判断力(三省堂新明解国語辞書による)”ということになります。

同検定は、年2回実施され、自分の「常識」レベルがどの辺にあるのかを知るためのものです。
内容は、「敬語とマナー(言葉使い・冠婚葬祭)」「暮らしの知恵(衣食住・健康や応急処置)「社会のしくみ(政治や環境)」「生活の中の法律(身近な法律知識)」「社会生活とお金(経済や産業についての理解)」「知識と教養(ことわざ・慣用句・学校教育)」の六つのジャンルから出題されます。

自分の映画の知識や常識力がどのくらいあるのか、試してみてはどうでしょうか?

映画検定のホームページ
http://www.kinejunsoken.com/eigakentei/
日本常識力検定のホームページ
http://www.josikiryoku.com/


映画「硫黄島からの手紙」

2007年01月12日 10時26分17秒 | 映画・社会

この映画は、日本人特に若い人に見て欲しいと思います。
今の平和な時代だからこそ、戦争のむごさ、悲惨な姿を忘れてはならないでしょう。
映画は、まるで白黒のような画面が多く、いかにも戦争に対する暗さが印象的です。

しかし、その中でも人間臭さがあらゆるところに垣間見られるのは、一服の慰めでしょうか?
全滅を覚悟するなかでも、家族に宛てる手紙を書き続ける兵士の気持ちは如何ばかりなのでしょうか?
その手紙を土の中に埋め、将来、この地で死力を尽くして戦った兵士がいたことを知らせるには、余りにも悲しすぎます。

 

1944年6月、戦況は厳しい中、東京とサイパンとの中間にある硫黄島に、本土防衛の最先端として就任した栗林陸軍中将は、海岸線を捨て、島の播鉢山(標高169m)に通じるトンネルを掘り、地下要塞を築きます。
栗林中将は、アメリカにも一時住んでいたことがあり、米軍の物量が豊富であり、この戦争の厳しさを誰よりも覚悟していました。
そこに援軍が送れないという大本営の連絡を受けますが、西郷ら若い兵士を励まし最後の戦いに挑みます。

 

島の周りは、米軍の戦艦が埋め尽くし、米軍は三日で落とせると踏んだのですが、36日間持ちこたえます。その間、投降する兵士も米軍に殺され、見つかった兵士は、日本軍に殺されます。
どちらにしても、死しかないという究極の状態に置かれた人間は、狂うしかないのです。

戦争は、どんな状態になっても絶対してはならないのです。
そのためにも、過去の戦争の悲惨さを伝えることで、抑止力になればと思います。


”今宮戎神社”

2007年01月11日 09時33分32秒 | 独り言・社会・ニュース

昨年は、西宮戎神社と尼崎戎神社にお参りしましたが、今年は、大阪の今宮戎神社にお参りに行きました。
あちこちに神社の浮気をすれば、あまりご利益もないのではないでしょうかねぇ。

”えべっさん”は9日の宵宮、10日の本戎、11日の残り福と3日間、商売の神様のイベントがありますが、この3日間のためには、12月から色々の行事があります。
12月12日には、福娘が決まりましたが、今年の福娘は3511名の応募者から40名が選ばれました。

   

1月3日には”お千度”といって、無事に斎行が出来るように、たいまつの中提灯をかざして、本殿の周りを3度回るそうですが、これも昨年から希望者を募っているようです。

1月5,6日は福娘回礼といって報道陣にお目見えをします。
7日は餅まき神事献花祭(遠州流家元)
8日は献茶祭(表千家家元) などの行事があるようです。

  

今宮戎神社は、天照皇大神、事代主命、外三神を奉斎しています。
創建は推古天皇の御代に聖徳太子が四天王寺を建立されたときに同地西方の鎮護としてお祀りされたのが始まりと伝えられています。
”えべっさん”は左脇に鯛を、右手に釣竿を持っていますが、元々漁業の守り神であり、平安中期より宮中に鮮魚を献進してきたのが、どうして商売繁盛の神様になったのでしょうか?
豊漁の祈願が大阪の風土が商売繁盛の祈願になったのでは、と思いますが・・・・