秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

世界遺産・ブハラ

2009-03-23 | 旅・ウズベキスタン
サッカーボールを追いかける子供たち。
世界遺産を傷つけたらどうすんの、
写真撮っとこうと近づくと集まったきてポーズをとった。
ウズベキスタンの人たちは写真撮ってもらうのが好きな人が多かった。

少年達はスペースを見つけるとサッカーに興じているのをあちこちで見かけました。

ウルベク・メドレセで
 
ティムールの孫のウルグベクが、真の教育施設にしたいと願って1418年に建てた、現存する中央アジアで最古の神学校


 
カラクム砂漠は黒く、キジルクム砂漠は赤いという。
このキジルクム砂漠を南へ下るのに、陸路バスだと7~8時間かかるのを飛行機で約1時間。
私が座った飛行機の座席は左側だったので、ずっとキジルクムが見えていたということになる。

アムダリア川の両側で沙漠の性質が異なり、
西南側がカラクム(黒い沙漠)東北側がキジルクム(赤い沙漠)

 
白い部分がみえることもあって、それは塩の白。
塩害で土を変えないと植物は育たない不毛の地です。

ブハラはシルクロード交易によって古代から栄えた古都で2500年以上も歴史があります。
ブハラの最初の黄金期は9世紀サーマーン朝時代に始まり、
イスラム神学の聖地として偉大な学者が集まりここから各地に巣立っていったそうだ。

ブハラの黄金期の第2期は16世紀後半、
今残っている建造物はそれ以降のものがほとんどで、茶色いイメージの街でした。


カラーン・モスクから右奥にカラーン・ミナレット
 
ブハラの旧市街で一番高く砂漠の灯台と言われる町のどこからでも見えるブハラのシンボル
1127年建造、チンギスハーンが壊さなかった唯一の塔です。
18、19世紀には死刑場として袋詰した受刑者をミナレットの屋根から投げ落としたので、
「死の塔」とも呼ばれるようになった。
最後の死刑は1884年。
これを知ると塔に登る気は失せた。

ミル・アラブ・メドレセ
 
カラーンモスクに面して建ち、巨大なアーチの両脇の2つの青いドームがきれいです。
青と白のモザイクタイルからなる植物文様と文字文様を組み合わせた装飾は、末期ティムール様式の典型例だそうだ。
ソ連時代に中央アジアで開校を認められていた数少ない神学校で、ここから多くのイスラム原理主義者が輩出しました。

アルク城
 
この城の辺りが古代プハラ発祥の地で、2000年以上前に遡るといわれるが、最初の城砦がいつ築かれたのかは定かではない
今残っている城は18世紀のもの。

ラビ・ハウズは旧市街にある元キャラバンサライの池
 

前に修復中のメドレセ
 

公園内でゲームを楽しむ人たち
 

気になる木

2009-03-23 | 旅・ウズベキスタン
          これは樫の木

タシケントのウズベキスタン工芸博物館中庭に植わってて、
樹齢何百年と聞いたけど忘れました。

日本の神社のしめ縄まいたご神木のように、大木がたくさんみられましたが、まだ葉がでていないので幹の木肌を見ただけでは何の木がわからない。

「この木なんの木、気になる木」です。
その都度、現地のガイドさんに尋ねました。

 
桑の木、こんな大木にまで成長するのですね。
すでに芽がでていましたが芽を見ても桑の木とはわからなかった。

 
 
樹齢800年だったと聞いたようなプラタナスの大木。
下に看板がありましたが、キリル語なので読めない。

 
なんの木が聞きそびれた。
緑の葉が茂るようになるとさぞかしきれいだろうと思われました。

ウズベキスタンは100年あまりソ連の支配下にありました。
1991年に独立しましたが、共産圏でいてよかったこと、教育費と医療費の無料の制度は現在も引き継がれているそうです。

そのため義務教育のあとの大学も授業料無料、
そして4年間は専門課程に入らず、びっちり一般教養を学ばされる。
その後大学院で2年間専門課程をするらしい。

だから歴史も植物の名も知っていて当然だと。
簡単な医学治療も学び、自分の病気は自分で治すのが前提にあるそうです。

病院が満員で救急車だってたらいまわしの日本、
ただ単に木でしかない、植物に疎い普通の日本人、
ちょっと恥ずかしい思いがしました。

 
傑作なのは、列車のすべての扉ガラスの白い花、
なんと模造品がセロテープで貼り付けられていました。