秋麗(あきうらら)

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原爆の日黙祷ささげるインド人

2011-08-10 | 世情雑感
長崎で66回目の原爆の日を迎えた9日、インド下院(定数545)は広島と長崎での原爆犠牲者に対する黙祷を行った。
インドは英国から独立した1947年以降、原爆が投下された8月6日か9日に、世界からの核兵器根絶の思いとを込め黙祷を続けている。
というニュースを今朝の産経新聞で読みました。

インド人ってすごいなぁと念のため調べてみた。

原爆の日 黙祷で検索すると
外務省のページでは以下のように書かれていました。

原爆記念日における黙祷
例年、インド国会では、会期中の場合、8月6日に広島、長崎の原爆の犠牲者に対して黙祷を行っている。


他に毎日新聞2005年08月06日の記事もヒットした。
「黙とう:甲子園で広島代表校が提案、高野連が制止」そのままコピペします。
『第87回全国高校野球選手権大会に出場する広島代表の高陽東が、
6日午前8時15分の原爆投下時刻を前に、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で、開会式に備えて集合した他の48チームの選手たちに黙とうを提案しようとしたところ、日本高校野球連盟の関係者に止められ、同校ナインだけで黙とうした。
学校側は前日までに大会本部などの了承を得ていたという。
関係者によると、当初は同校の工藤真司主将(3年)が「被爆地の高校生として、ピカドンで亡くなられた多くの人々の冥福を祈り、二度と過ちを繰り返さないことを誓います」と宣言し、他の選手たちにも黙とうを呼びかける予定だった。
しかし、メッセージを伝えようとしたところ、高野連の田名部和裕参事が「原爆は広島だけのこと。この場でみんなを巻き込むのは良くない」と制した。
同校ナインは列を外れ、広島の方角に向かって自分たちだけで黙とうしたという。
選手の一人は「他府県の選手にも被爆の悲惨さなどを知ってもらおうと考えたのに、悲しい」とがっかりしていた。
田名部参事は「広島のことも長崎のことも含めて、大会行事として(終戦記念日の)8月15日正午に黙とうしており、原爆の日の黙とうを全体の行事とするわけにはいかない。
今日の黙とうは1校でやるものと思って許可した。今朝、朝日新聞から全校に黙とうを呼びかけたいとの意向が伝えられたが、私が主将に話して1校で黙とうすることを納得してもらったと考えている」と話した。
朝日新聞社の松本督(すすむ)・広報宣伝センター長は「高陽東の意向を高野連に伝えたのは本社企画事業部員だ。しかし、本社は高野連が全体行事としての黙とうを認めなかったことについては意見が一致している」と話した。』



先ほど紹介した外務省のページでは、以下お二方が気になりました。

パール判事
国際法学者パール判事もベンガル地方出身。
1948年の極東国際軍事裁判では、戦勝国が戦敗国を裁くこと自体に反対し、被告人全員無罪を主張。

パール判事について詳しくお知りになりたい方は→こちらで

1950年に来日されたとき以下のようにも発言されています。
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。
いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。
日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい。」


菩提僊那(ぼだいせんな)
752年の東大寺大仏開眼の導師を努めた南インド出身のバラモン僧菩提僊那Bodisena)
来日したインド人の第1号と云われている。
同僧は遣唐使派遣の際、中国より来日し奈良の大安寺に約25年間にわたり滞在したと云われている。

こんな伝説残っているそうです。
「インドから唐に修行に来ていた菩提僊那は、文殊菩薩を拝むために、聖地として知られた五台山に登りました。
その途中で出会ったおじいさんから、「文殊菩薩は人々を救うために、日本に生まれ変わった」と教えられたのです。
この文殊菩薩とは、東大寺の創建に尽力した行基のことで、菩提僊那は行基に会おうと天平8(736)年に来日したとされています。 」