日曜の夜明け前の空が印象的でした。
東の空高くにちゃんと星写ってます、明けの明星かな?
朝7:50梅田集合だったので、早起きしました。
神社仏閣巡り旅書いてる途中ですが、
昨日のお出かけで驚いたことあったので忘れへんうちに。
まず驚いたことは、あちこち人が多かった。
車も増えれば事故も渋滞も発生する。
このままなし崩し的に日本はコロナ閉塞状況から脱皮するんだろうかと思ったぐらいです。
昨日の収穫物です。
撮影してたらニャンコ必ずやってくる。
ツアー代金GoToトラベルで少しお安くなって7,480円、
さらに地域クーポン2,000円が付いてたのを使って買ったもの。
旅の連れが日帰りバスツアー申し込んでくれたのは9月初め。
一番最初の申込人だったようで、バス席が一番前でよく見えました。
渋滞回避で通った道もよく認識できました。
このツアー、催行確定がなかなかでなかった。
やっと9/29決定でたよと連れからメールきた。
私と友人は8月下旬から、ぼちぼち何処か行こうと希望は膨らんでた。
できる限りアウトドアの空気の良さそなところへ。
最初はぶどう狩り狙っても催行不成立。
スーパーで千円も出せば買って食べれるよと言われそうした。
そんな折に、会津磐梯山へデンして帰る旅見つけた。
周りに声掛けしても、まだ団体旅行は遠慮するという。
9月初旬には一人でも行くつもりが、結局は高校からの友人が同行してくれたのだった。
その旅先の会津若松で、神社仏閣めぐりの三熟女の一人から電話かかった。
若狭仏像巡りでいい宿泊まろうとの提案だった。
10/2に会ってネット検索することになり、
そこで決めたのが、今連載中の天橋立からの旅です。
結局今から思うに、9月終わりになって、
多くの人が旅立とうお出かけしようという気になったんだと思います。
実際、昨日参加したバスツアーは39名で満席でした。
日本海の漁港浜坂でアワビ踊り焼き御膳食べて、湯村温泉散策、神鍋高原でリンゴ狩りというツアー行程でした。
湯村温泉で買った「とちもち」に平家の蝶紋があったのが気になった。
調べてみたら、超面白かった。
創業寿永二年で検索したら、1183年。
平家落人によってもたらされた「とちもち」だったのしょう。
簡潔に引用させてもらうと
木曽義仲と鎌倉にいた源頼朝はライバル。
源頼朝にとって木曽義仲の平安京入りはライバルに先を越されたことを意味する。
朝廷との巧みな外交術のみで、一挙にして木曽義仲を窮地に追い込んだ秘策こそが、
源頼朝にとって木曽義仲の平安京入りはライバルに先を越されたことを意味する。
朝廷との巧みな外交術のみで、一挙にして木曽義仲を窮地に追い込んだ秘策こそが、
1183年 寿永二年十月宣旨
1183年7月に念願の平安京入りを実現した木曽義仲は
信濃の山暮らしが長く朝廷文化に馴染むことができず平安京内で孤立していた。
信濃の山暮らしが長く朝廷文化に馴染むことができず平安京内で孤立していた。
当時の安徳天皇は、後白河法皇が幽閉されている間に平清盛が半ば強引に即位させた。
平家一門が安徳天皇を連れて西へと都落ちした後、
後白河法皇は孫の後鳥羽天皇を即位させることを決めたのに、異を唱えたのが木曽義仲。
「以仁王の令旨のおかげで、悪しき平家を追い払うことができたからその息子が天皇になるのが当然」と。
平家が都落ちした後の荒廃した京の治安維持と食糧確保できなかった木曽義仲は、
平家討伐のため西国へ赴く。
その間に、裏で手を組んだ後白河法皇と源頼朝、
実際に下された命令が、寿永二年十月宣旨だった。
「東海・東山の人々はちゃんと税金を納めなさい。
国司ら地方役人たちは、もし人々が従わぬようなら、
源頼朝に手伝ってもらって命令を実行せよ!」
寿永二年十月宣旨が出されたことで、源頼朝と木曽義仲の立場は一気に逆転した。
木曽義仲は後白河法皇と源頼朝にまんまと嵌められた。
平家一門が安徳天皇を連れて西へと都落ちした後、
後白河法皇は孫の後鳥羽天皇を即位させることを決めたのに、異を唱えたのが木曽義仲。
「以仁王の令旨のおかげで、悪しき平家を追い払うことができたからその息子が天皇になるのが当然」と。
平家が都落ちした後の荒廃した京の治安維持と食糧確保できなかった木曽義仲は、
平家討伐のため西国へ赴く。
その間に、裏で手を組んだ後白河法皇と源頼朝、
実際に下された命令が、寿永二年十月宣旨だった。
「東海・東山の人々はちゃんと税金を納めなさい。
国司ら地方役人たちは、もし人々が従わぬようなら、
源頼朝に手伝ってもらって命令を実行せよ!」
寿永二年十月宣旨が出されたことで、源頼朝と木曽義仲の立場は一気に逆転した。
木曽義仲は後白河法皇と源頼朝にまんまと嵌められた。
山育ちの木曽義仲では、魔窟とまで呼ばれた朝廷の権謀術数を如何ともすることができなかった。
以仁王は1151年に生まれた後白河上皇の息子。
皇位から遠ざけられたまま月日が経った1177年、鹿ケ谷の陰謀により後白河上皇と平清盛の対立が決定的なものとなり、1179年には後白河上皇が幽閉される。
所領していた土地を平清盛に奪われた以仁王は、
1180年3月高倉天皇の息子の安徳天皇の即位が決まったことで、天皇家の傍流となることが確実に。
後白河上皇が幽閉されたとき、同時に摂関藤原氏も幽閉されていた。
藤原氏の菩提寺は興福寺。
天台宗の中で大きく2つの勢力があり、園城寺は寺門派で後白河上皇と親密な関係にあった。
延暦寺は山門派で鹿ケ谷の陰謀という事件を通じて平氏とは良好な関係を保っていた。
ところが1180年2月
皇位から遠ざけられたまま月日が経った1177年、鹿ケ谷の陰謀により後白河上皇と平清盛の対立が決定的なものとなり、1179年には後白河上皇が幽閉される。
所領していた土地を平清盛に奪われた以仁王は、
1180年3月高倉天皇の息子の安徳天皇の即位が決まったことで、天皇家の傍流となることが確実に。
後白河上皇が幽閉されたとき、同時に摂関藤原氏も幽閉されていた。
藤原氏の菩提寺は興福寺。
天台宗の中で大きく2つの勢力があり、園城寺は寺門派で後白河上皇と親密な関係にあった。
延暦寺は山門派で鹿ケ谷の陰謀という事件を通じて平氏とは良好な関係を保っていた。
ところが1180年2月
高倉天皇が恒例行事の神社参りで最初の参詣先を平氏御用達の厳島神社にしてしまった。
延暦寺は、既存の寺院を軽視した行為と考え高倉天皇側の平氏に強く反発するようになる。
以仁王の挙兵当時、延暦寺・園城寺・興福寺の3大寺院は全て反平氏という姿勢で一致していた
もともと園城寺と延暦寺は宗教的に対立関係にあったのを利用し、
平氏軍は、延暦寺を反平氏から中立の立場へと変えさせることに成功。
延暦寺は、既存の寺院を軽視した行為と考え高倉天皇側の平氏に強く反発するようになる。
以仁王の挙兵当時、延暦寺・園城寺・興福寺の3大寺院は全て反平氏という姿勢で一致していた
もともと園城寺と延暦寺は宗教的に対立関係にあったのを利用し、
平氏軍は、延暦寺を反平氏から中立の立場へと変えさせることに成功。
源頼政は源氏でありながら平氏側に組し、平氏の下で着実に出世し従三位。
突如として平氏を裏切り、以仁王と行動を共にするようになった。
こうした中で1180年4月9日
各地の源氏たちに打倒平氏の蜂起を呼びかける令旨を送る。
これがあっという間にばれて以仁王は園城寺へ逃げ込んだ。
平氏軍の園城寺攻めの情報を事前にキャッチした以仁王は、
園城寺を脱出しもう1つの有力寺院である奈良の興福寺へと逃亡。
最終決戦宇治川の戦いでボコボコにされて源頼政は自害、
以仁王も平氏軍に追いつかれ興福寺にたどり着く前に命を落とす。
※しかし実際は落ち延びて、会津の大内宿へ、さらに越の国へと伝承が残る。
2020/10/4大内宿散策の記録残してます。
以仁王の挙兵は失敗したが、亡き以仁王の意志は令旨として各地の源氏たちへと伝わり、
平氏軍が令旨を受け取った源氏たちを討伐しようとしたことで
「窮鼠猫を噛む」の状態に追い込んでしまった。
東国では、源頼朝と源義仲という大きく2つの源氏勢力が立ち上がる。
こうして源平合戦が始まった。
2012年NHK大河ドラマ「平清盛」 は、ちゃんと視聴しなかった。
汚らしくて陰鬱な京の町、ドロドロの人間関係が理解しがたかった。
もう一度、わかりやすいシナリオでドラマみたいです。
2012-08-27 平清盛 - 質オザサ店主ブログ
2013-05-14 歴史はつながる、ひびきあう - 質オザサ店主ブログ
以仁王もまだちゃんと調べていないんですけど、生きていたなんて聞いちゃうとホシナさんも調べてたくなりますよね。保科さんはイメージいいので。
でも本当源氏と平氏のドロドロとかそれぞれの同族同士の争いでまた天皇が絡むんでこの辺りは私もあまり知りたくもないんです。どうせ大事な方ほどやられていると思うんで。
けど危機に合った時に落ち延びるって場所って深読みしますよね。人間に注目しても絶えずまた繰り返すんだったら土地に注目する方が良いのかもなあ?
蝶々の家紋が伝わる事もいっぱいです。勝ったり強かったりしても一瞬だけど文化継承などがずっと続いている所に注目なり評価が出てくるといいですね。
今旅行行きたくてしょうがないんですけど、まだ落ち着かず。やるべき事やれたらご褒美に行けるといいなあと宝くじ買ってますよ。今旅行安いですから魅力ありすぎます。
平家も源氏もどれがどなたか…
9月末に会津若松の大内宿で以仁王に出会いました。
それまでは単なる事件でしか知らないお名前でしたから。
それが、湯村温泉の寿永2年で出くわしてびっくりしましたよ。
よっぽど注目してと催促されてるのかと。