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清洲城(愛知県清須市)へ行って来ました!

2011年06月06日 01時00分00秒 | イベント・外出
<月曜はお勧めなおはなし>

愛知県清須市にある清洲城へ行って来ました!

 そもそも清洲城は、尾張・遠江・越前守護の管領である斯波義重が、尾張守護所である下津城の別郭として1405年に築城したのが始まりのようです。

ところが1476年に守護代織田家の内紛により下津城が焼失したことにより、1478年に守護所が清洲へ移転し、清洲が尾張の中心地となります。

清洲は京や鎌倉に連絡する往還と伊勢街道が合流する交通の要衝でもあったようです。

1555年に織田信長によって守護代織田信友が殺害され、以降信長が那古野城から清洲城へ移って本拠とし、信長はこの城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間居城としたようです。

1562年には信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれ、それを清洲同盟というのは有名ですね。

しかし、1563年には美濃の斎藤家との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となったようです。

 それから1582年の本能寺の変で信長が倒れると、清洲城にて清洲会議が行われ、清洲城は次男・織田信雄が相続しました。この清洲会議も有名ですね。

しかし、小田原の役後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らったことから除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、1595年には福島正則の居城となります。

 1600年の関ヶ原の戦いでは、清洲城は東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わって徳川家康の四男・松平忠吉が入ります。

しかし松平忠吉が関ヶ原の戦いの戦傷で病死ししたことから、1607年に家康の九男徳川義直が清洲城へ入城することととなります。

 1609年に徳川家康によって、清洲から名古屋への遷府が指令されると、1610年から清洲城下町は名古屋城下に移転され、清洲城は名古屋城築城の際の資材として利用され廃城となり歴史から清洲城は消え去ることとなります・・・。

 そしてようやく1989年(平成元年)に、清洲城として天守閣を始め、芸能文化館、清洲城広場など共に蘇えったとのことです。
なので、以下の写真のように、清洲城はかなり新しく、きれいです。
当時の大きさを再現したとのことで、名古屋城より大きくはありません。

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↑清洲城

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↑清洲城


入館料300円を支払って、天守閣の中へ入りました。

中は資料館になっています。

以下の写真のような当時の清洲城のイラストや歴史の説明などがありました。

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↑当時の清洲城のイラスト


天守閣4階からの眺望は以下の写真の通りです。

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↑天守閣4階からの景色

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↑天守閣4階からの景色

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↑天守閣4階からの景色

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↑天守閣4階からの景色

清洲城見学は、新しくきれいでとてもオススメです!


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