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「戦艦大和 復元プロジェクト(戸成一成)」という本はオススメ!

2012年09月14日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

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 戦艦「大和」とは、昭和16(1941)年12月に日本の呉海軍工廠で極秘裏に建造された世界最大の戦艦で、昭和20(1945)年4月7日に沖縄特攻作戦に向かう途上、米艦載機の攻撃を受け沈没した船です。

 しかしながら戦艦「大和」建造の技術は生き続け、世界一の大型タンカー建造だけにとどまらず、自動車や家電品の生産など幅広い分野で応用され、戦後の日本の復興を支えてきたようです。

 この「戦艦大和 復元プロジェクト」という本は、その戦艦「大和」を十分の一スケールで復元したプロジェクトについて書かれたものです。

 具体的には、その準備段階から当時の図面・写真や沈没した水中写真を使っての精密さへの追究、建造にまつわる数々のエピソード、これまで不明だった細部がどのように解明されたかなどの苦労のほか、研究家による大和の構造研究、当時の大和建造計画から沈没までの歴史などについて書かれています。

 私にとっては、以前このブログで紹介した以下の本を読んだこともあり、とても興味深く読みました。

戦艦大和最後の乗組員の遺言(八杉康夫)
戦艦大和と日本人(永沢道雄)

 この十分の一スケール大和戦艦「大和」は、現在、広島県呉市にある「大和ミュージアム」に置かれているので、ぜひ行って見たいと思っています。

なお、この十分の一スケールの大和は、もっとも整備され美しい状態だった昭和20年(1945年)の春、最後の入渠を終えた状態を再現したとのことです。

「戦艦大和 復元プロジェクト」という本はとてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・終戦60周年を控えた平成17年(2005年)4月23日、広島県呉市に大和ミュージアム(正式名称・呉市海事歴史科学館)がオープンする。呉は戦艦大和のふるさとである。明治36年(1903)、呉鎮守府のもとに海軍工廠が設置されて以来、多数の軍艦がそこで建造された。そして、日米開戦直後の昭和16年(1941年)12月16日、未曾有の巨大戦艦大和は竣工した。よく知られるとおり、戦艦大和はその後、航空戦力の台頭により活躍の場を見出せないまま、昭和20年(1945年)4月、沖縄特攻作戦の途上、米軍機の激しい攻撃を受けて沈んだ。しかし、世界最大の46cm砲を備えた大和は、東洋の一小国にすぎなかった日本が、明治維新からわずか70年あまりで造り上げた記念碑的な船だったといえる。さらには、太平洋戦争そのものを象徴するかのような悲劇的な最期を迎えたこともあり、戦後になっても数知れない研究の対象となり、平成11年(1999年)には坊ノ岬沖に沈んだ大和の海底調査が行われた。まず、数々の映画や小説、アニメのモデルとして、日本人の心に住み続けてきた。ミュージアムの1階展示室には、十分の一スケールで復元された戦艦大和が置かれている。実に全長26mの超巨大模型である。ただ大きいだけではない。可能な限り集められた設計資料、写真資料、元乗組員への聞き取り調査をもとに、細部にわたって現在考えうる最新の考証が詰め込まれている。

・大和に関する資料はほとんど残されていないため、不明箇所が多い。百分の一の模型を作るのがやっとだろうと思っていたのだ。十分の一といえば、省略できる箇所はまずない。実物で1cmのものは、模型では1mmになる。1mmといえば、模型の世界では確実に工作対象となる。つまり、十分の一で大和を再現するためには、実物の大和を1cm単位で解析できるだけの資料が必要になる。どだい困難な話だったのだ。

・戦艦大和の木材には台湾檜が使われていたが、模型でも同じ檜を使うと、甲板材の木目だけがスケール1分の1になってしまう。何種類かの木を検討し、木目がやや詰まっていて色合いもよいタモ材に決めた。

・戦艦大和の資料は終戦時にほぼ完全に焼き尽くされて、オリジナルの線図は残されていない。現存するのは、終戦直後に米軍からの要請を受け、大和の設計主任だった牧野茂氏が中心となって復元した二百分の一程度の図面だが、これは設計用途のものではなく、いわば概念図にすぎない。三井造船でこの図面がコンピュータ入力されたが、ガタガタの船体になってしまった。今までのもデラーたちは、すべてこの図面をもとに船体を製作してきた。なにしろ木製の模型ならば、図面の精度が少々悪くても、凹凸をカンナやヤスリで削ればきれいな船体を作れるのだ。しかし、厚さ6mmの鋼材を使う場合、そう簡単にはいかない。図面に誤差があれば、図面どおりに凹凸の船体が出来上がってしまう。やむをえず、この線図をもとにして、まったく新しい図面を引きなおすことになってしまった。

・こうして線図がまとまり、船体の建造が始まった。ところが、艦首と艦尾のデリケートな曲面は、鋼板の曲げ加工では再現できないことがわかった。大和の顔ともいうべき球状船首がゴツゴツしていては艶消しだ。かなりの重量増加を覚悟して、艦首と艦尾だけは鋳造することになった。

・平成16年(2004年)2月1日に船体が完成し、山本造船で進水式が行われた。模型の進水式など、前代未聞のことだろう。その日のうちに、20tを超える船体は台船に乗せられて、呉港フェリー桟橋に建設中の博物館に運び込まれた。搬入を急いだのには、理由がある。船体が大きすぎて、建物ができあがってしまってからでは、運び込めないのだ。館内に設置した専用クレーンを使って、ようやく台座に据えた。

・さっそく、山本造船の大下棟梁が木甲板の作業を始めた。まずは二人の助手を連れて、艦首側から寸法を採る。しかし、平らに見える甲板も平面ではない。水はけをよくするため、左右方向に下りの傾斜がついている。横から見ても、うねるような曲線が連続的につながっている。この前後左右のうねる甲板に、まっすぐ板を張ってゆくことは簡単ではない。しかも、弦側のカーブにあわせて、微妙な木組みが要求されるのだ。巨大な甲板に幅15mmの板を1枚1枚、手作業で張ってゆく。気の遠くなるような作業だ。棟梁は頭の中で、じっくりと段取りを考えている。一週間がたち二週間がすぎても、思うように進まない。なかなかペースがつかめないのだ。しかし、棟梁にしかできない仕事に、誰も口を出すことはできない。一ヶ月がたった頃、ようやく前甲板が見えてきた。その素晴らしさはたちまち評判になり、雑誌などで紹介される機会が増えてきた。それまでは実現に半信半疑だった人たちも、見る目が違ってくるのがわかった。同時に棟梁の作業ペースが加速し、夏の初めに木甲板が完成した。建造打ち合わせのとき、衝突の原因となった甲板は、予想をはるかに超えた見事な作品になったのである。これで私は、もう成功を確信していた。この見事な甲板に載せる上部構造物は、すべてこの甲板のレベルに合わせなければならなくなるからだ。今思えば、このときの私はまだ、甲板に負けない構造物を作る苦労を想像すらしていなかったのである。

・呉市では二百枚程度の大和の原図を収集していた。いずれも終戦時の焼却を奇跡的に免れた資料で、何よりも重要なものだ。そして、終戦時に関係者の手によって復元された図面。それに泉氏が提供してくれたおもに同型艦武蔵の資料、坂上氏による百分の一大和模型と貴重なアドバイス。さらにポーランドの研究家ヤヌス・シコルスキー氏の驚異的作図能力による大和図面集があり、これらと百枚を超える大和・武蔵の写真、海底調査のビデオから出力した二千枚もの写真が重要な資料となった。

・まず、どの段階の大和を再現するのかが問題となった。よく知られているように、大和には戦局の変化にともなって、数回にわたる改装が施された。技術面からみると竣工時の姿が妥当だが、歴史を重んじるなら沈没直前の姿を残したい。しかし、沈没直前の大和は、甲板が黒く塗られ、あちこちに増設された機銃のまわりに土嚢が詰まれた状態で、美しいとはいえない。さまざまに検討した結果、もっとも整備され美しい状態だった昭和20年の春、最後の入渠を終えた状態を再現することになった。

・時間に余裕がなかった。青木さんは、盆休みを返上して図面を書いた。「細かい図面を多々書いていて、個々のパーツに及ぶと莫大な数になります。滑車1個、手摺1個でも図面を書かないと作れない。それでも、いいスタッフをつけてもらったので、何とかスムーズに仕事を進められました。」十分の一スケールでは、省略するところがない。青木さんは手摺、滑車(これは実際に動く)、さらにアンテナ用の絶縁碍子まで図面を起こし、量産するために業者に発注した。青木さんが書いた図面は数多い。基本図面は十吸うまい。細かい部品まで合わせると数百枚にも及んだ。手書きのものもあるが、ほとんどはCADで書く。CADのデータは電子メールで業者に送られ、製作される。慎重を期していても、たまに失敗もあった。手摺は真鍮で鋳造したあと、サンプルを立ててはじめて失敗に気がついた。軍艦の手摺は、先頭の際に舷側に沿って倒れるようになっている。ところが、この試作品は90度内側に倒れる形になっていたのだ。無論、これはすぐに修正された。

・何とか間に合った進水式では、スクリューと艦首の御紋章が一際輝いてみえた。式が終わると、大和の船体はすぐに館内に運ばれ船体が特設クレーンで身長に台座にセットされた。2月の進水式から11月までの間に、甲板張りや上部構造物のとりつけ作業が行われた。この段階で、さらに多くのスタッフが作業に加わることになる。ここまでくると、製作以前の打ち合わせのほうが長くなる。ゴーサインが出れば期限内で一気に作ってしまうが、そこにいたるまでの考証が長くなるのだ。考証の際には、多くの場合サンプルを作ることになる。写真と図面と見比べて、合理的かどうかを考えて結論を出す。徹底的に資料を集めたとはいえ、わからない箇所は数限りなく、右から左への流れ作業というわけにはいかない。上部構造物には、鉄、プラスチック、銅、真鍮など、あらゆる素材が使われた。

・海底で撮影されたビデオは約60時間もある。60時間のビデオを見るには60時間あればよいと考えるのは、素人というものだ。写っている物が何かと常に考えながら、いちいちビデオを止めてはプリンターで出力するのだ。大和の形がまったく見えない場面をすべて飛ばしても、百時間や二百時間で終わる仕事ではない。林さんは睡眠不足の目をしばたたせながらも、ずっしりと重みを感じるほど大量のコピーを渡してくれるのだ。林さんには、ずいぶんと新しい発見をしてもらった。たとえば砲塔のうしろの出入口は、今まで図面も写真もなかった。しかし、ドアがあることは明らかだったので、砲塔の後部が写っているシーンを探してもらった。砲塔は海底で転倒しており、その半分は土砂にうずもれているので、実はあまり期待していなかった。それでも、しっかり見つけてくれた。それを元に図面を起こしたのだ。

・林さんの努力や新発見の写真・図面によって、初めてわかった点も少なくない。林さんは指折り数えあげる。艦首にある大小二重のフェアリーダーの小型の方にローラーがついていることや、艦首にジャッキステイが二本走っていること、磁気機雷防御用の舷外電路の形状や通気筒の波切り板の形状は、水中映像から新たにわかった。また、舷外のケーブルがほとんどむき出しになっていたが、これはカバーが腐って潮流に流された可能性もある。防空指揮所のまわりの構造が、図面よりもかなり補強してあるのも、水中映像からわかったことだ。リブが見えるところが、格子状にたくさん入っている。艦橋トップの信号灯もずいぶん補強されていた。ほかにも、三連装機銃の爆風よけのシールドでは、エア・インテイクの位置が従来よりも内側に寄っていることが確認され、機銃射撃装置のシャッターが3枚ある写真が見つかった。林さんの新しい発見は、まだある。艦尾まわりの扉の形状は、未発表の写真でかなり詳しくわかった。水中写真で舷外電路の艦内への出入口が鮮明にわかったが、どこの場所かはまだ特定できていない。後部艦橋の下部も、鮮明な写真と図面で形状がはっきりした。スクリューまわりや舵まわりは、従来いわれている形とほぼ同じだった。ボラードの頭が通気筒になっていたことも、武蔵の写真ではわかっていたが、大和でも同じだということが水中写真から確認できた。

・時として、図面と実物で違うことがあるのには困った。図面で指示されていない部分は、造船所の工員が経験をもとに作るので、写真を見ないとわからない。また、はっきりと図面院示されているにもかかわらず、実際は違う形に作られている場合もある。とくに戦時中は、要求されている機能を発揮できさえすれば図面と違っても工期を短縮することが優先された。残っている大和の図面はわずか200枚ぐらい。ディティールが確認できるものは、そのうちほんのわずか、しかもそれが最終状態を表しているとは限らない。時代や製作者によって、いろいろな大和がある。それまで正しいと考えられていた大和から、少しずつ変わっていくのだ。今回の大和は、現時点での大和を表現したとはいえるが、これが決定的な大和というわけではない。

・大和に特徴的な箇所として、甲板の甲鈑部分がある。従来の戦艦は艦首から艦尾までほぼ前面が木甲板に覆われていたが大和は三基ある主砲塔の前後までが木甲板で、その先は甲鈑がむき出しになっている。大和の甲板は、甲鈑の上に木甲板を張ってあるため、かなり大きな段差があった。木甲板は防熱と防音が目的だった。鉄でできた船体が直射日光で焼かれれば、艦内は酷暑にさらされる。また、鉄板の上を大勢の兵員が動き回れば、艦内に響くだろう。艦の中央部上甲板には幹部仕官の居住区や司令部幕僚の部屋があるために、とくに気を遣ったものなのである。

・おおよその艤装品がそれぞれの箇所に納まると、大和の完成も間近に思えたが、目立たないが手間の掛かる作業が残されていた。手摺と空中線である。手摺は日本海軍の規格図面があるので、形はわかる。しかし、数百本もある手摺をどうやって作るのか。結局、これも鋳造することになった。艦首から艦尾まで空中線が張られた。この空中線は無線アンテナの役目を果たすもので、たんなる飾りではない。それぞれのアンテナ線は、どこかで艦内に引き込まれているのだが、その場所と引き込み口の形状には何種類かある。また、それぞれのアンテナは隣接する線と絶縁碍子でつながれているが、この碍子の色についても新発見があった。碍子は陶製なので従来の模型はこれをすべて白色で作っていた。ところが、たまたま海底から引き上げられた大和の残骸の中に1個だけあった碍子は何と茶色だったのだ。考えてみると、日を受ければキラリと光るようなものを軍艦にとりつけるはずはない。最後の出撃では、目立つことを避けるため、甲板まで黒く塗ったほどなのだ。量産した十分の一サイズの碍子は、もちろん実物の色に合わせた。

・戦艦大和を多くの角度から調べることによって、当時の技術や社会のレベル、大和を造らなくてはならなかった国際状況までを知ることができる。大和を造っていた工員の生活といったことまでもわかる。大和を通してわかる世界が非常に大きいからこそ、大和はすばらしいのだ。ミュージアムでは、こういった姿勢を伝えていきたい。大和は昭和10年代当時の、日本と世界を見ることのできる望遠鏡なのだ。展示模型としても、これほどの労力を投入したものは世界でも例がないだろう。アメリカやドイツには、50分の1で作られた戦艦などがある。しかし、甲板に板を1枚1枚張った模型など見当たらない。外国の模型はスマートにできているが、それは模型としてよくできているにすぎず、この大和のように損得を超えた熱意が投入されているものはない。全長26mのスケール的にも、常軌を逸しているとしかいいようがない。このような多くの人たちの熱意が凝縮して、大和はほぼ完成した。

・図面は基本的に正しいと考えられるが、作業場の都合から現場で手直しを受けることがある。だから、実際の艦を再現するのであれば、図面よりも写真を優先するほかはない。しかし、その写真がいつ撮影されたものかが明らかでないと、刻々と変化していった大和の姿を確定することはできない。実際に大和は二度、大きく改装されている。一度目は昭和18年(1943年)のことだ。両舷側に装備されていた副砲を撤去して、高角砲を6基12門増備し、機銃も増やした。大和はこの姿でマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加している。二度目は昭和19年(1944年)、さらに25mm機銃を増設するなど、徹底的に対空兵装を強化した。のちに沖縄特攻作戦に参加したときには、仮設の25mm機銃も搭載され、その一部は防弾用の土嚢で囲まれていた。こうした細かな変化を確認することは、ほとんど不可能に近い。ちなみに沈没したときの姿は、米軍機から視認されにくいよう甲板が黒く塗られ、損害箇所を直ちに把握できるように、船体のフレーム箇所を示す白線が引かれていた。搭載機は呉で降ろされ、艦尾の空中線支柱も撤去されていたことが、米軍の撮影した写真から判断できる。

・以前から知られていtる大和と武蔵の写真に関しても、一枚ずつ徹底的に拡大してチェックを行った。大和ミュージアムが所蔵する写真の多くは、呉海軍工廠の写真斑によって撮影されたもので、原板は手札サイズからキャビネサイズのガラスネガであるため、その鮮明さ、明瞭さは想像をはるかに超えたものだった。艦の全長が5cm程度の写真でも、拡大すると艦橋の中にいる乗員の姿が見えるほどだった。こうした作業で写真から得られた情報を、図面に落とし込んでは製作図とした。また、断片的に残されている乗組員の記念撮影は、とくに貴重な資料となった。なにげないスナップからも多くの情報が得られる。もともと極秘のうちに建造された大和では写真撮影が厳禁だったために、他の戦艦と比べれば残された写真は極めて少ない。関係者が記念撮影をするときも、艦や主砲の大きさがわかるアングルでの写真撮影は行わなかった。そのため、細部についてはわからない部分のほうが多いといってもよいほどだった。このような状況下で不明箇所を推定しながら作業を進めるには、図面や写真の他に、乗組員の証言が重要なポイントになることも多かった。出入口はどこにあったか、その扉はどちらに開いたかといったことから、各部分の配色に到るまで、事細かな考証が行われた。

・戦後すぐ、米海軍技術調査団が日本に来て、海軍工廠や造船所にあった旧海軍の技術資料を押さえたが、残念なことに資料のほとんどが焼かれたあとだった。呉海軍工廠でも、資料を焼く煙は1週間も消えなかったともいわれている。「ところが、佐世保海軍工廠では焼かれずに残っていたんです。そこへ米軍が目をつけて、資料を残らず引き上げた。それが長い間、アメリカの国立公文書館に保管されていました。さいわい全部マイクロフィルムに収められ、現物は日本に返された。牧野茂さんが中心になって、拓洋社にあった「海の若人の会」のメンバーがその資料整理をしました。A4版で2、300枚の立派なリストにまとめられたのです」こうして日本に返還された資料が、のちの軍艦研究に役立った。そのうち主要なものは「福井コレクション」として、現在は大和ミュージアムに収蔵されている。

・「スクリュープロペラについては、第一号艦予備推進器の図面が残っていましたが、プロペラキャップの図面はありませんでした。大和のプロペラキャップは異常に長い。ところが、担当技師のノートに、寸法を記載したメモが残っていたんです。4本あった軸(プロペラシャフト)の傾斜角度も記録されていました。これは貴重な資料です。不思議なことに、こっちが欲しいと思っていると、いろいろな資料が出てくるんです」ちなみに、十分の一大和のスクリューは、この本物の図面から作ったものだ。

・軍艦の色彩については面白い例がある。旧海軍では工廠ごとに、塗装用ペンキの色調が少しずつ異なっていた。これは、鉛白など含有物の割合について、各工廠で違う規則が採用されていたためだ。それを調査してまとめた資料が三菱の神戸造船所に残っており、泉氏がこれを復元したのである。「資料をもとに、塗料メーカーに頼んで復元してみたところ、同じ軍艦色でも呉、舞鶴、佐世保、横須賀でまったく違うことがはっきりしました。佐世保がいちばん黒く、呉はおとなしい色です。」もちろん、十分の一大和では呉の灰色を再現した。修理のときに使えるように2、3隻分の塗料を用意した。あとになって同じ色を作ることは、まずできないからだ。

・私たちは、十分の一模型と並行して、CGで大和を見せる計画を立てた。そこでは、模型製作途中で新しくわかった情報も取り入れて、情報を更新していこうと考えている。こうした新しい発見をただちに模型に反映させることは難しいが、そうした情報を蓄積して、いずれ改修しなければならないだろう。製作という作業は、ある時点で思い切らないと完成しない。しかし、模型作りに終わりはあっても、研究に終わりはないのだ。

・完成から数日後、大和は数十人の男たちに取り囲まれていた。角川春樹事務所が製作する映画「男たちの大和/YAMATO」に出演することになったのだ。建造が始まった早い時期から「どんなセットを作っても、この大和にはおよばない」と白羽の矢が立ち、開館直前の厳しいスケジュールの中で撮影が行われた。想定されるあらゆるシーンに対応するために、長時間の撮影が行われた。

<目次>
第一章 大和を造ろう!
 大和ミュージアム
 驚くべきプロジェクト
 戦艦大和を十分の一で
 スタートから大激論に
 あくまで細部にこだわる
 船体にも問題が発生
 思いがけないヒント
 鋳造で曲面を再現する
 前代未聞の進水式
 資料を揃える
 資料のない部分をどう作るか
第二章 造るのは模型ではない、十分の一の大和だ
 山本造船に白羽の矢
 納期までわずか1年半
 腹をくくるしかない
 数百枚にのぼる図面作成
 正月返上の突貫工事
 進水式を迎える
 高まる精密さへの要求
 棟梁が張った木甲板
 トータルメディアの仕事
 気の遠くなる作業
 デジタル・データの解析
 相次ぐ新発見
 変わり続ける大和
 見え方にも気を配る
 ものづくりの精神
 初めて明らかになったこと
 甲鈑部分と主砲塔
 新発見の写真資料
 煙突で大失敗
 わずかなミスでも
 最後の難所にさしかかる
 カタパルトと格納庫
 手摺と空中線
 大和は世界を見る望遠鏡
第三章 大和研究に懸ける
 一次資料の大半が集められる
 写真をどう扱うか
 海底調査の重要な映像
 既存の写真も入念にチェック
 坂上隆氏と大和模型
 戦艦大和との出会い
 観察とスケッチの毎日
 最初の大和模型
 百五十分の一大和を作る
 12年をかけて作られた名品
 艦艇模型を変えた泉江三氏
 大和型戦艦との関わり
 伝説の模型集団
 戦艦大和の資料を追って
 純銀製の戦艦武蔵
 図面「E800」
 世界の博物館模型
 研究に終わりはない
第四章 戦艦大和が遺したもの 半藤一利・戸高一成 特別対談
 大和計画当時の状況
 大和の建造計画
 世界最大の戦艦
 意外に近かった想定決戦海面
 計画と運用の間のギャップ
 使い道のなくなった主力戦艦
 艦隊決戦思想のシンボル
 大和がもたらした技術革新
 レイテ沖海戦はこうして計画された
 空前のレイテ沖海戦
 「大和は沈むかもしれない」
 大和特攻の発端
 一億総特攻のさきがけ
 片道燃料ではなかった
 戦艦大和とは何だったのか
第五章 生き続ける大和
 完成間近を迎える
 最後の仕上げ
 完成した大和が教えること
 大和建造ドックの御影石
 語り継がれる大和
あとがき
戦艦大和関係年表
大和ミュージアム紹介

面白かった本まとめ(2012年上半期)

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