浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

沼津・三島・清水町石油コンビナート反対運動

2016-10-28 21:29:19 | その他
 表題の反対運動についてまとめることとなり、粗い年表を作成した。まず元にしたのは、『沼津住民運動の歩み』(日本放送出版協会、1979年)である。これ以外にも、文献や資料を準備しつつあるが、問題は今なぜコンビナート反対運動なのか、その問題意識を鮮明にすることである。

 『・・・歩み』を読んでいて思ったことは、県庁というのは住民にとって「敵」であるということだ。県庁職員は、権力を背景にして、県庁が計画した事業を成功させるために、なりふりかまわず行動する人種であるということを感じる。

 某自治体の資料を読んでいても、県庁は国策を地域で推進する主体として存在しているとしかいいようがない。推進だけではなく、監視機関でもある。

 そして県の計画を推進する別働隊が、自民党の県議団である。

 そうした構図が、この反対運動ではっきりと見える。

 沼津には何度も通ったことがあるが、もう一度反対運動が展開された「場」として見直す必要があるように思う。

 またその運動が、現在の沼津市や三島市に、どう息づいているのかも検証する必要があるだろう。前途多難ではあるが、引き受けた以上は、全力でやり遂げようと思う。
 
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被爆国日本は、核兵器不使用に反対?

2016-10-28 19:17:51 | その他
 核兵器を禁止することは正義である。それに反対した日本、核兵器保有国と同じ行動をとったわけである。原爆被爆国の立場を自ら放棄したということなのだろう。情けない。 

核禁止条約 交渉開始へ 国連委決議、日本反対

2016年10月28日 13時57分

 【ニューヨーク=東條仁史】国連総会第一委員会(軍縮)は二十七日、核兵器を法的に禁止する条約の制定交渉を来年から開始することを盛り込んだ決議案を賛成多数で採択した。唯一の戦争被爆国として核廃絶に取り組んできた日本政府は反対に回り、被爆者から反発の声が上がるのは必至だ。

 賛成は百二十三カ国で、核保有国の米国、英国、フランス、ロシアなど三十八カ国が反対、中国など十六カ国が棄権した。核実験を繰り返す北朝鮮は賛成した。

 来年三月にも核兵器の開発や実験、保有、使用などを全面禁止する条約の枠組みづくりに向け、国連で初めて本格的な議論が始まることになる。

 佐野利男軍縮大使は採決後、記者団に「核軍縮は核保有国と非保有国が協力して進めることが必要。国際社会の総意の下で進めるべきだと主張してきたが、意思決定のあり方に反映されなかった」と反対理由を説明した。

 決議案を共同提案したオーストリアのクグリッツ軍縮大使は採択後、日本の反対について「残念に思う」と述べた。

 決議は「核兵器の使用がもたらす人道的に破滅的な結果を深く懸念する」とし、来年三月二十七~三十一日と六月十五日~七月七日にニューヨークで「国連の会議を開き、核兵器を禁止する法的拘束力がある文書の交渉に入ることを決める」と明記した。交渉の進め方や議論する具体的な内容などについては今後、協議していくとみられる。

 ただ、米国など主要な核保有国は交渉に参加しない可能性が高い。核廃絶に向け、実効性のある条約が制定できるかは見通せない。

<核兵器禁止条約> 核兵器の開発や実験、保有、使用などを全面禁止する条約。現在は構想段階。核廃絶への法的手段を討議するためジュネーブで開かれた国連作業部会は今年8月、2017年の交渉開始を国連総会に勧告するとの報告書を採択。米国などの核保有国は強く反発しているが、オーストリアやメキシコなどは今年10月、17年3月の交渉開始に向けた決議案を国連総会に提出していた。 (共同)
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事実と正義

2016-10-28 08:07:26 | その他
 三笠宮が亡くなった。三笠宮は古代オリエント史学者として知られている。

 史学者は、事実を尊重する。信頼しうる史料(信頼しうるかどうかも厳密な史料批判を行う)をもとにして過去にあった事実を確定していく。その作業は、なかなかたいへんだ。時間がかかる。
 さてその確定された事実(史実)をもとにして、歴史的な評価を加えるわけだが、その評価には当然評価者の価値観が加わる。その価値観の拠って立つところは正義だろうと思う。

 2月11日は「建国記念の日」とされる。この日は、大日本帝国憲法下の時代には「紀元節」と呼ばれていた。紀元前660年のこの日、神武天皇が即位した、とされるのである。紀元前660年と言えば、いまだ縄文時代である。そういう時代に、神武が即位したなんてことは荒唐無稽としか言いようがない。しかし、近代天皇制権力はあえて中国の思想を導入しながら、そのように確定した。歴史学的には何の根拠もない。天皇の権威を高める必要性を感じていた近代天皇制権力の当事者達は、そのために様々な作為を行った。一世一元の制(天皇一代につき元号一つ)もその一つである。大日本帝国時代の祝祭日は、天皇制に関わったものが多い。

 敗戦。祝祭日は名前をかえて生き残った。11月3日の明治天皇の誕生日は「明治節」であった。それが「文化の日」となった。しかし「紀元節」はいったんは廃止された。荒唐無稽でもあるからだ。

 だが、1966年、「紀元節」は、「建国記念の日」として復活した。

 三笠宮は、その復活に反対した。史学者である三笠宮は、史実に即していない「紀元節」の復活を認めるわけにはいかなかった。同時に、大日本帝国憲法時代、とりわけ軍国主義の時代に批判的な姿勢を示していた三笠宮は、みずからの良心(正義感)から認めることはできなかった。

 戦争に否定的な姿勢を堅持し、学問的良心をもった三笠宮の死を悼む。

『高知新聞』コラム(10・28)

小社会  「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、…

 「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵(ののし)られた世の中を、私は経験してきた」。自ら編者となった「日本のあけぼの」(光文社)の「はじめに」を、三笠宮さまはこう書き出されている。

 1959年、神武天皇が即位した日とされる紀元節の復活の動きが活発になっていたころだ。「過去のことだと安心してはおれない」「こんな動きは、また戦争につながるのではないだろうか」。思い悩み、多くの専門家の協力を得て、「真実は何か」を伝えようと出版したという。

 同時期の月刊誌では日本紀元を架空と断じ、「架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあった」。そして、旧陸軍軍人として大いに責任がある、と(「文芸春秋」にみる昭和史)。

 古代オリエント史家は気さくな人柄でも知られた。東京大の研究生時代からの友人、東京経済大名誉教授の色川大吉さんが雑誌の対談で元号について尋ねたところ、笑いながら「西暦にしたらよいですよ。なにかにつけ、とても不便です」。

 この対談では天皇制にも触れている。「これは憲法にあきらかなように、すべて国民に任せるという気持ちです」。象徴天皇制への思いは、おいである天皇陛下に受け継がれているのではないだろうか。

 「政治は真理、真実を基礎とすべきである」。偽りのない歴史と平和を希求した三笠宮さまのご冥福を祈りたい。



 
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