今日の『中日新聞』の社説は、方言である。方言が消えつつあり、まさに「絶滅」に瀕している方言もあるというのである。私は、ことばは豊かであればあるほどよいと思っている。ことばは、たとえ方言でも、ある意味での抽象である。何ものかを表現しようとするとき、その何ものかのすべてを表現することはできないので、その何ものかをもっともよく表すことばを選び使用するのである。だから何ものかをより的確に表現しようとする場合、豊かなことばは前提になる。
したがって語彙は豊かであればあるほどよい。
さてなぜ方言が消えていくのか。方言が差別されているからだ。私は差別には、その背後にその差別を是とする権力の存在があると思っている。中央の政治権力は、たとえば標準語の教科書の使用を強制する。あきらかに、標準語と方言とは同格ではない。学習指導要領という権力的な作為が、地域のことばや文化を押しのけていく。もし教育が地域で自由に行うことが出来ていれば、方言が危機になるということはないであろう。
また方言が消えていく原因に、地方切り捨て政策がある。その代表的なものが市町村合併である。近代日本の合併は、中央権力により、より合理的な、より金がかからない効率的な支配を貫徹するために行われてきた。そして農業の切り捨て。農業では食べていけないようにして、地域の文化を消し、また住民たちをその地域に住めなくさせる。食べていけなくなったからだ。
そのような政策展開の中で、地域に住む住民たちが、その地域に誇りをもてなくなる。中央の政治権力の差別政策にのり、みずからの方言を蔑視するようになる。
私のことばは、思い切り遠州弁である。東京にいる子どもたちは、それを揶揄する。しかし、私はそれに抗する。ことばの豊かさは、多様な方言の存在が担保すると思うからである。
東京一極集中政策のなかであるからこそ、いなかのことばにプライドをもち、そのことばが日本全体のことばの豊かさを支えているのだという自負を持ちたい。
それだけでなく、中央の政治権力を担う者どもの放言を問題にすべきである。方言で、奴等の放言を批判することくらい痛快なことはない。