声がまだ正常となっていないために、各所で引き受けていた講座の講師は、延期、延期である。主催者にはまことに迷惑をかけている。それだけではない。体の不調は、意欲を失わせる。したがって、送るべき原稿など遅れに遅れている。
今日、岩田書院という日本史や民俗学の本を出版している会社の案内などが送られてきた。そのなかに「売り上げが20年前の水準に落ちた」という文章があった。確かに売れないだろうと思う。この出版社の本の価格はだいたい高額である。5000円を超える本は、基本的に買えない。それに歴史観を揺るがすような内容の本は少なく、専門的な、ミクロの分野がほとんどである。こういう本は、大学で研究費をもらっている学者が買うしかないだろう。
そしたら、「大学教授は研究貧乏に」という文もあった。大学教員の個人研究費が50万円未満、それが8割だとあった。もちろん給料は別である。
しかし、同じ研究をしていても、研究費をもらえない私のような在野の研究者は、本はみずからの給料から支出する。一時、文科省の科研費をとったことはあるが、基本的に生活費を切り詰めて本を買うのである。そうした者からすれば、個人研究費がたとえ少額でももらえる者は幸せなのだ。それ以外にもいろいろな副収入がある仕事もくるだろうし、大学の研究者は、みずからの給料をつかって研究しなさい、と言いたくなる。
学術出版をしている会社が解散するという情報も入ってきている。たいへんなことだと私も思う。その責任の一部については大学の研究者が負うべきだ。なぜなら本を買わずに、パソコンなどに支出する人も多いからだ。
市民向けに講座の講師をやっていると、いろいろな情報が聴講される方々から寄せられる。その情報のネタ元は、本ではない。ほとんどがネットである。ネットの記述を印刷してくれるのだ。なぜ本ではなく、ネットなのか。
私はもちろん、ネットの記述はいっさい使わない。きちんとした本をもとにする。ネットの記述は基本的に信用できない。参考にする場合、引用する場合、一定の信頼できるものをつかわなければならないと思っているからであるが、そうした手続きに無頓着な人の場合、ネットだって、あるいはまったくでたらめの本でも、立派な参考書(類)なのだ。
大学に進学する者が50%はいる時代である。大学の研究者は、学問的な手続きとはどういうものかをきちんと教えるべきである。本が売れないのは、そうしたことを大学の教員達がしていないからではないか。
岩田書院からの案内に「若手研究者の経済的な困窮」という文もあった。学者に対するアンケートの中間結果をもとに論じているのだが、岩田書院は「研究者は、本を買う金がないから、買いたくても買えない」と思っていたそうだが、アンケート結果からはそういう人は半分、半分は「金はあるけど買わない」のだそうだ。そうだろう。大学教員がみんな研究しているわけではないのだ。正教員として雇われたら、その地位にあぐらをかいているのではないか。正教員に運悪くなれない若手研究者たちは、非常勤講師をいくつもやって困窮しながらいつかは正教員にと思っているのだ。
正教員の研究者達は、こういう格差、断絶をなんとかしようとしているのだろうか。
本が売れないというのは、本を出したい人たちが、本が売れるような努力をしていないからではないか、というのが私の結論である。
なお私は岩田書院の本はほとんど買う気はない。私の関心を喚起するものがないからだ。
今日、岩田書院という日本史や民俗学の本を出版している会社の案内などが送られてきた。そのなかに「売り上げが20年前の水準に落ちた」という文章があった。確かに売れないだろうと思う。この出版社の本の価格はだいたい高額である。5000円を超える本は、基本的に買えない。それに歴史観を揺るがすような内容の本は少なく、専門的な、ミクロの分野がほとんどである。こういう本は、大学で研究費をもらっている学者が買うしかないだろう。
そしたら、「大学教授は研究貧乏に」という文もあった。大学教員の個人研究費が50万円未満、それが8割だとあった。もちろん給料は別である。
しかし、同じ研究をしていても、研究費をもらえない私のような在野の研究者は、本はみずからの給料から支出する。一時、文科省の科研費をとったことはあるが、基本的に生活費を切り詰めて本を買うのである。そうした者からすれば、個人研究費がたとえ少額でももらえる者は幸せなのだ。それ以外にもいろいろな副収入がある仕事もくるだろうし、大学の研究者は、みずからの給料をつかって研究しなさい、と言いたくなる。
学術出版をしている会社が解散するという情報も入ってきている。たいへんなことだと私も思う。その責任の一部については大学の研究者が負うべきだ。なぜなら本を買わずに、パソコンなどに支出する人も多いからだ。
市民向けに講座の講師をやっていると、いろいろな情報が聴講される方々から寄せられる。その情報のネタ元は、本ではない。ほとんどがネットである。ネットの記述を印刷してくれるのだ。なぜ本ではなく、ネットなのか。
私はもちろん、ネットの記述はいっさい使わない。きちんとした本をもとにする。ネットの記述は基本的に信用できない。参考にする場合、引用する場合、一定の信頼できるものをつかわなければならないと思っているからであるが、そうした手続きに無頓着な人の場合、ネットだって、あるいはまったくでたらめの本でも、立派な参考書(類)なのだ。
大学に進学する者が50%はいる時代である。大学の研究者は、学問的な手続きとはどういうものかをきちんと教えるべきである。本が売れないのは、そうしたことを大学の教員達がしていないからではないか。
岩田書院からの案内に「若手研究者の経済的な困窮」という文もあった。学者に対するアンケートの中間結果をもとに論じているのだが、岩田書院は「研究者は、本を買う金がないから、買いたくても買えない」と思っていたそうだが、アンケート結果からはそういう人は半分、半分は「金はあるけど買わない」のだそうだ。そうだろう。大学教員がみんな研究しているわけではないのだ。正教員として雇われたら、その地位にあぐらをかいているのではないか。正教員に運悪くなれない若手研究者たちは、非常勤講師をいくつもやって困窮しながらいつかは正教員にと思っているのだ。
正教員の研究者達は、こういう格差、断絶をなんとかしようとしているのだろうか。
本が売れないというのは、本を出したい人たちが、本が売れるような努力をしていないからではないか、というのが私の結論である。
なお私は岩田書院の本はほとんど買う気はない。私の関心を喚起するものがないからだ。