浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ボブ・ディランのこと

2016-10-29 22:06:10 | その他
 私はボブのCDを1枚だけ持っている。「風に吹かれて」が入っているものだ。ディランがノーベル文学賞の受賞者になっても、彼は何の反応もしなかった。私は、そうだろうなと思った。そういうものには関わらずに、ひたすら自分の歌を求めて歌い続けるのだと思っていた。

 でも今日、彼は受賞するという発表を行った。まあそれもいいか。

 私は書庫から、『現代思想』の2010年5月臨時増刊号を持ってきた。特集は、ボブ・ディランだ。買っても全然読んでいなかった。

 彼の詩は、評価が高い。初期の頃のプロテストソング的なものだけでなく、その後も、である。それもそのはず、彼はいろいろな詩人の詩を読んでいる。それで自分の歌詞を創っているのだ。

 でも、彼の歌詞は、実はよくわからない。とりとめがない。流れ続ける水のようだ。

 だから『ボブ・ディラン全詩集』も出版されている。聴いているだけではわからないから読みたくなる。

 わからないことをすると、人は関心を抱くようになる。今回も、そうなのか。
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『みぎわ』

2016-10-29 12:46:26 | その他
 郵便受けを見たら『みぎわ』56号が届けられていた。発行は浜松聖書集会。無教会派のクリスチャンの集まりである。もう昇天されてしまったが、溝口正先生が主宰されていた集まりである。私はクリスチャンではないが、クリスチャンである溝口先生は、心から敬服することができる方だった。私にとっては、溝口先生は正義を体現されている方であり、先生の要請は天の声でもあった。

 先生亡き後も、浜松聖書集会は続けられ、こうして年報めいたものを出版されている。

 今日届いたのですべてを読んだわけではないが、ぱらぱらとめくっていたら、内坂晃氏の「神に問われる者として」が目についた。

 内坂氏は、「あなたはどこにいるのか」という神の言葉を引く。「あなた」、すなわち個人としてのあなたはどこにいるかと、神は問うのだ。問題は、常に生きている個人としての「あなた」であって、その「あなた」の生き方が神に問われているということであることを指摘する。これはキリスト教の教えを借りてこなくても、厳然たる事実であって、私たちひとりひとりは、神の存在を認めていなくても、そのかわりに自らの良心によっていつも審判を受けているのである。「あなたはどこにいるのか」、「あなた」はどう生きているのか、といつも問われているのだ。

 そして内坂氏は、軍に徴兵された渡部良三氏、氏は日本軍が兵士に強要していた捕虜の刺殺を拒否した。拒否することが出来た。

 鳴りとよむ大いなる者の声きこゆ 「虐殺こばめ生命を賭けよ」

 しかしその後、氏は強烈なリンチを受けるが、それにも耐える。

 血を吐くも呑むもならざり殴られて 口に溜るを耐えて直立不動

 渡部氏は神の前で、すべきでないことを拒んだ。

 クリスチャンでない私には神の声は聞こえない。しかし、良心が許さないことを拒否できるのか、それがいつも問われる。そんなとき、神を信じている人はいいなあとも思う。私には神はいない、私には私しかいないからだ。

 氏は、しかし苦しむ。なぜ捕虜虐殺をとめる行動をとらなかったのか、と。

 内坂氏は、個人の生き方を問題にする。とりわけ日本は「長い物には巻かれよ」などと、個を減殺することがよいこととされる。だからこそ、独立した個人、個人の自由を、氏は強調する。このところを読んでいて、大杉栄の文にそういうところがあったように思う。

人生は決して、あらかじめ定められた、すなわちちゃんとできあがった一冊の本ではない。各人がそこへ一字一字書いていく白紙の本だ。生きて行くそのことがすなわち人生なのだ。
労働運動とは何ぞや、という問題にしてもやはり同じことだ。労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働問題というこの白紙の大きな本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れて行くのだ。
観念や理想は、それ自身が既に、一つの大きな力である。光である。しかし、その力や光も、自分で築き上げてきた現実の地上から離れれば離れるほど、それだけ弱まっていく。すなわちその力や光は、その本当の強さを保つためには、自分で一字一字、一行一行ずつ書いてきた文字そのものから放たれるものでなければならない。


 内坂氏は、アイヒマンの例をあげて、「機械の歯車の一つでしかない」ようになる官僚組織の悪を指摘する。大杉栄も、こういう。

 夜なかに、ふと目をあけてみると、俺は妙なところにいた。
 目のとどく限り、無数の人間がうじゃうじゃいて、みんなてんでに何か仕事をしている。鎖を造っているのだ。
 俺のすぐ傍にいる奴が、かなり長く延びた鎖を、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端を隣りの奴に渡した。隣りの奴は、またこれを長く延ばして、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端をさらに向うの隣りの奴に渡した。その間に初めの奴は横の奴から鎖を受取って、前と同じようにそれを延ばして、自分のからだに巻きつけて、またその反対の横の方の奴にその端を渡している。みんなして、こんなふうに、同じことを繰返し繰返して、しかも、それが目まぐるしいほどの早さで行われている。
 もうみんな、十重にも二十重にも、からだ中を鎖に巻きつけていて、はた目からは身動きもできぬように思われるのだが、鎖を造ることとそれをからだに巻きつけることだけには、手足も自由に動くようだ。せっせとやっている。みんなの顔には何の苦もなさそうだ。むしろ喜んでやっているようにも見える。
 しかしそうばかりでもないようだ。俺のいるところから十人ばかり向うの奴が、何か大きな声を出して、その鎖の端をほおり投げた。するとその傍に、やっぱりからだ中鎖を巻きつけて立っている奴が、ずかずかとそいつのところへ行って、持っていた太い棍棒で、三つ四つ殴りつけた。近くにいたみんなはときの声をあげて、喜び叫んだ。前の奴は泣きながらまた鎖の端を拾い取って、小さな輪を造っては嵌はめ、造っては嵌めしている。そしていつの間にか、そいつの涙も乾いてしまった。
 またところどころには、やっぱりからだ中鎖を巻きつけた、しかしみんなに較べると多少風采のいい奴が立っていて、何だか蓄音器のような黄色な声を出して、のべつにしゃべり立てている。「鎖はわれわれを保護し、われわれを自由にする神聖なるものである、」というような意味のことを、難しい言葉や難しい理窟をならべて、述べ立てている。みんなは感心したふうで聴いている。
 そしてこの広い野原のような工場の真ん中に、すばらしい立派ななりをした、多分はこの工場の主人一族とも思われる奴等が、ソファの上に横になって、葉巻か何かくゆらしている。その煙の輪が、時々職工の顔の前に、ふわりふわりと飛んで来て、あたりのみんなをいやというほどむせさせる。
 妙なところだなと思っていると、何だか俺のからだの節々が痛み出して来た。気をつけて見ると、俺のからだにもやっぱり、十重二十重にも鎖が巻きつけてある。そして俺もやっぱりせっせと鎖の環をつないでいる。俺もやっぱり工場の職工の一人なのであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ああ、俺はあんまり理窟を云ひすぎた。理窟は鎖を解かない。理窟は胃の腑の鍵を奪ひ返さない。
 鎖は益々きつく俺達をしめて来た。胃の腑の鍵も益々かたくしまつて来た。さすがのなまけものの衆愚も、そろそろ悶え出して来た。自覚せる戦闘的少数者の努力は今だ。俺は俺の手足に巻きついている鎖を棄てて立つた。


 「鎖を棄てて」自ら立ち、自ら思考すること、内坂氏もそれを強調するが、しかし一人の「あなた」が厳しい状況に対決することができるのか、と問う。そして内坂氏は、渡部氏の例を示して、それを支えるものとして、信仰と父(渡部氏の父もクリスチャンで抵抗者であった)との人間的つながりを示す。だが、渡部氏の場合は父であるが、別に父でなくてはいけないのではなく、自分自身とつながるさまざまな個人、個人、個人・・・・・も、当然「あなた」を支える。

 「世の荒波に抗する意志の力を得ること」、内坂氏の場合その力は神の声でもあるが、神をもたない私は、みずからの内からわきあがる力を頼りにするしかない。

 だからこそ、権力をおそらくは恐れることをしなかった大杉の胆力はどこから生まれたのかを知りたいと思って、大杉を読んでいる。
 
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