浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

生きること

2018-08-23 21:40:28 | 
 どう生きるのか、という問いは、何才になってもなくならない。忙しい日々を過ごし、ふと別なことをやる時に、その問いがあたまをもたげる。

 『原民喜』という作家について記されたこの本は、その「別なこと」だ。

 原民喜は、静かな人だ。沈黙に耐えられる人だ。私は、そういう人は強い人だと思う。私は沈黙には耐えられない。他人と一緒に居る時に、黙って居つづけることはできない。話す、話す、・・・・・・

 原と交遊があった遠藤周作は、沈黙に耐えられない人のようだ。だから、饒舌の中に孤を見てしまう。

 原は、裕福な家庭に育ったが、しかし父をはじめ、死が身近にあった。死から遠ざかった時は、結婚したとき。心から信頼できる貞恵との生活は、原にとって少ない、他者との幸せな時空であった。

 だが、結核が貞恵を奪う。そしてヒロシマで被ばく。多くの人の「死」にであう。その「死」を書きのこさなければらないと、「夏の花」などを書く。

 貞恵がこの世を去ってから、原は、この世界で生きることに執着は持っていなかったと思う。だから自死?

 しかし、彼は自死の直前に、「永遠のみどり」という詩を書いている。

 永遠のみどり


 ヒロシマのデルタに
 若葉 うづまけ


 死と焔の記憶に
 よき祈りよ こもれ


 とはのみどりを
 永遠のみどりを

 ヒロシマのデルタに
 青葉 したたれ


 この詩は、この世界に絶望を感じた人のものではない。未来を信じる詩である。


 なぜ原民喜は自死したのか。自分がこの世ですべきことはすべてしてしまった、と思ったのではないか。後事は、他の人に託す。遠藤周作、祐子さんたち。

 人間への信頼を持つが故の自死。そういう気がする。


 この本。読みながら、原民喜という作家の人生を見つめながら、いろいろな想念が湧いてくる。

 とてもよい本である。

 実は私は、原民喜の作品をひとつも読んで来なかった。読まなければならない、ということだ。


 
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原民喜

2018-08-23 20:50:39 | 
 梯久美子の『原民喜』を読み進めている。

 私の部屋の南向きの窓には、台風の雨がたたきつける。台風は、四国辺に上陸するようだが、この辺も風は強く、ときおり強い雨が降る。午後2時半頃から、パソコンに向かい仕事をする。少しでも間違ってはいけない仕事なので、精神的に疲れる。

 そこから逃れようと、『原民喜』を読む。

 原民喜は、お見合いで貞恵さんという女性と結婚した。この本で、読む速度が速くなったのは、この結婚の時からだ。この世にたくさんの男女が生きているが、一人の男と一人の女が、まさにぴったりと「適合」するなんてことはほとんどあり得ない。だって、私たちは配偶者を、かなり狭い世界からしか選べないからだ。

 だが、大杉栄と伊藤野枝のように、原民喜と貞恵さんとは、それはそれはうまく「適合」したようだ。結婚し、貞恵さんとの家庭生活の頃、その時期だけ、原民喜の生活に光がさしているようだ。

 しかし貞恵さんは結核で早くに亡くなってしまう。短い結婚生活ではあったが、原民喜にとっては、とても幸せな日々であった。であるが故に、貞恵さん亡き後は、原にとって「余生」なのだ。

 その「余生」のさなか、広島に帰った際に、原は被ばくした。そして、被ばくの体験を書き記すという使命感をもつ。それで書いたのが、「夏の花」なのだ。

 しかし彼は、みずからが見たおびただしい死を、死ではないと記す。

 これらは「死」ではない、このやうに慌しい無造作な死が「死」と云へるだらうか

 死とは、原が妻貞恵を看取った時のようでなければならない。ヒロシマの被爆者の「死」はそうではなかった。

 
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見てしまった者

2018-08-23 09:04:39 | 
 昨夜は、1㌔ほど離れている東海道線を走る電車の音がよく聞こえた。そういうときは、雨が降るときだ。月にかかる暈と電車の音は同じようなはたらきをする。

 今朝は、風が強く、台風の影響がすでにでてきている。私は台風や大雨の時は、雨雲レーダーを眺める。どこに大雨が降っているか、五分おきにそれがわかる。赤色がこの付近にかかっているときは、ここに大雨が降る。

 今年は、台風が多い。幸いこの付近に到来した台風は一つだ。しかし一つであっても、農業をしている私としては、仕事が一挙に増える。とりわけ風により、倒れるものが多い。もうひとつは風が海の塩を運んでくるときだ。放っておくと枯れてしまう。

 さて、私は『原民喜』を読み進める。

 原は、広島で被爆した。原は原爆投下後のヒロシマを見てしまったのだ。彼の生は、それに規定される。見てしまったからだ。

 自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だつた。お前たちは花だつた。久しい久しい昔から僕が知つてゐるものだつた。

 無数の悲惨な死、今までふつうに生きていた人々が、一瞬に生を絶たれた。その生と死を、背負わないで生きていくことはできない。

 なぜあなたが死に、私が生きているのか。そうした不条理な問いの前に、原は佇む。

 見てしまう。イヤ見ないでも、その光景が心に浮かぶ。直接見ないでも、見えてしまう。それでも、人間はそれに規定されてしまう。

 原は、見てしまったことを全身に背負い、生き、そして自死した。原の前で、原のことが書かれている本を手に取りながら、佇む。

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