小熊英二の『1968』という大部の本を私は読んではいない。以前このブログにも書いたが、「カッティング」の意味を小熊がわかっていなかった(小熊は、「印刷したビラを裁断する作業」であると解説していた)ことに強い違和感を持ったし、それも知っていない者の本は読む必要がないと判断したからだ。
今私は『東大闘争の語り』(小杉亮子、新曜社、2018年)を読みはじめたのだが、そこの記述に関して、小熊はここでも事実に基づかない文献のみによる憶測を記しているようだ。
小杉は、東大闘争に参加した者から、政治社会のことを自覚するようになった淵源を尋ねている。その淵源として、少年期に抱いた生活感(自分自身は「裕福ではないが貧困ではない」)をもとにして、周囲にあった貧困の存在に気付いていたことを析出している。
小杉はこう書いている。
“裕福ではないが貧困ではない”、つまり裕福な人々と貧しい人々の両方について想像力を働かせられる位置にあったことは、自他のあいだに存在する経済格差や、東大生というエリートの立場に立ったことで生じる社会的地位の上下に対する異和感を形成させるものだった。東大闘争が発生したとき、その異和感は社会と大学に対する異議申し立て参加への障壁を下げることになった。(57)
私は東大卒業者ではない。しかしここに記されていことは納得できる。
中学3年時の私のクラス(40人以上いた)で、大学進学者はたった3人である。成績が良くても、職業高校に行く者も多かった。私も「裕福ではないが貧困ではない」という位置にあった。周囲には「おだいさま」といわれる家があり、私たちの生活とは異なる世界に生きていた少数の人々がいた。そしてもちろん、貧困そのものの家庭もあった。子どもの頃の生活感はそういうものであった。
小杉は小熊の主張をとりあげる。
1960年代学生運動参加者のこうした、自らが相対的に有利な位置にいるという自覚と社会的格差に対する繊細な感受性は、先行研究では受験競争の勝利者としての「罪悪感」に短絡されてきた。すなわち、ベビーブーマー世代の成長とともに激化した受験競争のなかで、その頂点に立つ東大に入学することができた彼らは、「平等を重んじる戦後の民主教育の理念を教えられて育ちながら」「誰よりも多くの級友を蹴落として東大に入学できた」ことに罪悪感を抱いていたというのである。
私の体験からすると、「罪悪感」なんかは持っていなかった。受験校に進学した私や友人にとって、4年制大学に進学することは当たり前のことであった。私が学生運動に関わりはじめたのは、「罪悪感」ではなく、「正義感」であったと思う。「自らが相対的に有利な位置にいるという自覚と社会的格差に対する繊細な感受性」がその背景にはあった。その点で小熊の主張は「憶測」に過ぎない。
小杉は書いている。
自他の経済的格差や社会的地位の差にかんする東大闘争参加者達の感受性は、受験競争に巻き込まれるずっと前から、すなわち幼少期に自らが属する社会集団を認識する段階から芽生えていたものであり、進学が適わない級友や山谷でのセツルメントといったより具体的な生活体験に裏打ちされていた。その点で、罪悪感というよりは、具体的な解決方策を探る、社会問題に対する先鋭的な問題意識と呼ぶほうが適切なように思われる。(58)
小熊ら社会学者の多くは、何らかの研究をするときに多くの文献を渉猟し、それをもとに叙述していく。以前にも書いたが、その際、文献には軽重があることを意識していないように思える。私は歴史学であるから、使用する資史料については当然「史料批判」という作業を行う。社会学の研究者の多くにとっては、そうした作業が不十分だと、私は思う。
小熊の主張を知れば知る程、あの大部な『1968』は読む必要がないと思う。