斎藤美奈子さんの本は好きだ。『東京新聞』のコラムにも、週一回書いている。文学評論家という肩書きになるのだろうか。その齋藤さんが『中古典のすすめ』(紀伊國屋書店)を出した。
私は購入しようと思って、アマゾンなどをみたのだがなかった。そこで図書館にあるかと思って調べたらあった。他の人が借りだしていて、今日初めて手にした。
「古典」というと岩波文庫に入っているようなものをいうが、「中古典」とは、まあ「古典」ではないが、注目されたり、少しは読む価値があるかなと齋藤さんが思ったものをいうのだろう。
いろいろな本が紹介されている。読んだ本も読んでいないものもある。
最初に紹介されているのは、住井すゑさんの『橋のない川』である。これは私は読んでいる。ただし全部ではない。齋藤さんは、第二巻までは読んだ方がよいとあるが、私は第四巻まで読んだはずだ。読んだはずだというのは、くっきりとした記憶がないからだ。しかし主人公が育った場所のイメージは、今ももっている。
言うまでもなくこの小説は差別の問題を扱ったものである。私も当然読むべき本だと思う。差別というものがどういうものであるかを、体感的に知ることができる。
今日手に取って読んだ紹介文は、柴田翔『されどわれらが日々・・』、高野悦子『二十歳の原点』である。いずれも学生運動に関わるものだ。
学生時代に読んだ本は記憶に残り、また読んだときの感覚を思い出すこともできる。学生運動に関わっていた私にとっても、この本は思い出深い。この頃の柴田翔の本は今も書庫にあり、『されどわれらが日々・・』よりも私は『贈る言葉』のほうが好きだ。『贈る言葉』は青春の苦い思い出と一緒くたになっている。
私の青春時代は、学生運動の波だけではなく、いかに生くべきか、恋愛、性など様々なものが一挙に押し寄せてきて大きな荒波にもまれていたような気がする。その波の中を生きぬき、こうして老いてきているのだが、今になって振り返ることがよくある。
この齋藤さんの本を読み、そこに紹介されている本を、私自身がどのように読んだのかということと、つきあわせてみようと思う。
もう一冊、図書館から借りてきたのは『有島武郎』(岩波新書)である。買うべきかどうかを迷い、とりあえず借りてみて良かったら買おうと考えた本である。
私は芥川龍之介の後は、有島武郎を読んでみようと思っている。彼に当該時代の「歴史」がどのように刻まれているのか、私の研究対象としたいと思っているからだ。
有島武郎の作品は、「古典」である。
鶏卵の価格は、50年前とあまり変わっていない。養鶏業者などが努力しているのだろうか・・・などと安易に考えていた。
しかしこれを読んで、考えを変えた。消費者としての私は、ニワトリの生をも考えるべきであった。今後は、安いタマゴではなく、平飼いのタマゴを買うことにする。そうしないと、ニワトリの生は変わらない、改善されない。
今日、12月10日の新たに発見された感染者数、東京都は602人と過去最高、全国でも、TBSによれば2892人である。
重症者や死者も増えていることだろう。
まったく COVID-19に関しては、スカ=自民党・公明党政権は「放置状態」、無策のままに愚策をやめようとしない。スカ=自民党・公明党政権は、いのちよりカネなのだろう。
スカ=自民党・公明党政権は、この際老人を一掃しようとしているのではないか。
しかし、 COVID-19は老人だけが殺されるのではない。子どもも障がいを受ける。
新型コロナで子どもに心臓障害や心不全の危険 医師が警鐘鳴らす
こうなると、 COVID-19を強権的に抑えきる中華人民共和国のほうが、国家としての機能を果たしているといえるのではないか。
昨日朝日新聞社の『Journalism』12月号が送られてきた。まず読んだのが清川卓史氏の「当事者の言葉が迫るメディア変革「○○らしさ」の固定観念超えて」である。この雑誌のそれぞれの文の表題はすべて長い。
さてこの文は、清川氏が『朝日新聞』紙上に書いた認知症の記事について書いたものである。
「認知症」ということばについては、一定のイメージがある。それは良いものではない。しかし清川氏は認知症の人びとの取材をしていくなかで、認知症と一言でくくれないほどの個性を学んだ。そしてその個性はそれぞれの方々の生の軌跡が創り出してきたものだ。
そして「徘徊」ということばについて記す。認知症と徘徊はセットで認識されている。しかし清川氏は「徘徊」を使わない。認知症の方々から話を伺っているとき、「徘徊」、すなわち「目的もなく、うろうろと歩き回ること」なんかしていない、ただ自分自身がどこにいるのか分からなくなり、「周囲の景色を見渡して必死に場所の手がかりを探」しているのであって、それは「徘徊」なのかと。清川氏はその話を聞き、「徘徊」ではなく、「外出中に道に迷う」という表現をするようになり、朝日新聞もいまはそういう表現をしているという。
納得である。新しい知見を、清川氏の文で得ることができた。
清川氏は、2018年3月25日に「認知症とともに」の連載記事の中で、「徘徊と呼ばないで」という記事を書いた。
私がもし朝日新聞を読んでいたなら、その記事に目をとめて、「徘徊」や「認知症」に対する知見を得ていただろう。
新聞を読む意味のひとつは、思いがけない知見を得られることにあると思う。紙面を見渡していく中で、目をひいた記事を読む。その記事が自分自身の、今までに構築されてきたイメージを壊す、あらたな知見をもって視野を広げる、それが新聞なのである。
もちろんメディアは、一定のイメージをさらに固定化させる役割も果たす。ある認知症の人にテレビの取材が入り、テレビは認知症らしい絵を撮ろうとする、すると固定観念はより強化されていく。
そうではなく、清川氏のような視点こそメディアがもつべき視点なのだろう。
清川氏の文に、「ひきこもり」への言及があった。私の周囲には「ひきこもり」はいないが、これも否定的なイメージで認識されている。清川氏はこれにも挑戦している。
「わかりにくさ、複雑さをメディアが受け入れつつ、偏ったイメージを再生産する悪循環に陥らぬためにどうすればいいか」と書く。
そのためには、具体的な「ひきこもり」の人と接触をもつなかで、自分自身のもつイメージも含めて動揺させていく必要がある。そしてそれを伝えていく。
新聞などのメディアの重要性はここにあると思った。
人間にはいろいろな人がいる。世のため人のために尽くす人、自分のことばかり考える人、困っている人のためにみずからの人生を捧げる人・・・・さまざまな人がいるから社会は面白い。
しかしそれも生きていて健康だからこそできることだ。
今、 COVID-19が流行し、昨日の新たに発見された感染者は2809人である。それはしかし判明した感染者の数であって、実際の感染者数は不明である。最近の感染者、感染ルート不明という人が多いから、すでに数え切れないほどの人びとが感染しているはずだ。
その感染者の中から、重症化する人、亡くなる人がでてくる。昨日は重症者数555人、死者は47人である。
寒くなるにつれ感染者などが増加することは予想されていた。だが日本政府、厚労省の医系技官たちはその準備を怠っていた。医療崩壊する地域が出始めた。
私は感染者数が少ないときに、感染者を症状があろうとなかろうと割り出し、感染者を隔離して非感染者に感染させないようにする、with corona ではなく、without coronaをめざせと主張してきた。しかし日本だけがPCR検査を抑制し、いまもそれを継続している。その結果が現在だ。
スカ・自民党・公明党政権は、犯罪的にも、ウィルスをまき散らすGO TO トラベルをさらに長期間継続するつもりである。 COVID-19に国民を感染させないようにするという最優先すべき政策を放棄し、支持基盤の者たちにカネを配ることに専念している。更に驚くべきことに、corona対策を名目にして、近づいてくる総選挙のために莫大なカネを撒布しようとしている。スカ・自民党・公明党政権の「追加経済対策」は、選挙を前にした支持者への大盤振る舞いなのだ。
COVID-19の流行がさらに激しさを増そうとしているこの時に、人びとが感染を避けるためにやむをえず自粛しているこの時に(私の周囲にはそういう人が圧倒的に多い)、よもや自民党・公明党政権を支持している人たちはオメオメと税金の撒布を小躍りして受けとることはしないであろう。
現今日本の課題は、 COVID-19の抑圧である。これなしに「アフター コロナ」はない。安心して生活できる環境があってこその経済である。
人びとよ、スカ・自民党・公明党政権の無策と愚策に迎合するな!無策と愚策を支える事なかれ!