色川大吉さんが亡くなった。高校生の頃だったか、当時購読していた『朝日新聞』の日曜版では、「思想史を歩く」という連載があった(その後それは書籍化された)。そこに三多摩地方の自由民権運動の記述があった。私はそれに大いなる関心を抱いた。たしかそれは色川さんが書いていたように思う。
それ以来、『明治精神史』や『ユーラシア大陸思索行』など、色川さんの本はほとんど読んできた。自由民権100年の集会の時だったと思うが、話をしたこともある。
私の歴史研究を照らしてくれた学者はたくさんいるが、色川さんはその重要な一人である。しかし色川さんをはじめ、ほとんどが亡くなってしまった。民衆思想史の研究者では、安丸良夫さんが亡くなり、つぎにひろたまさきさんが亡くなり、そして色川さん。生存しているのは鹿野政直さんだけだ。ほかにお世話になった研究者はすべて亡くなられた。何かを書いても献呈する人は誰もいなくなった。寂しい限りだ。
さて色川さんの訃報を聞き、書庫から出してきたのがこの本。これだけ読んでいなかった。
色川さんの歴史学には、情熱がある。その情熱は生来のものだろうが、それだけではなく、あの戦争が大きく影響している。戦時下の大学生の多くが国家により殺された。殺されなかった色川さんは、殺された友人たちの魂を担っていたように思う。それが情熱へと転化していた。その思いがこの本には繰り返し記されている。
本書の中には、友人らの手紙、詩などが掲載されている。その詩の中に、私は「人はのぞみを喪っても生きつづけてゆくのだ」という文を発見し、これに強く同感した。今の私は「のぞみを喪っ」たまま生きているからだ。
「歴史は為政者らのつくる小さな事実の積み重ねによって進行する。小さな事実だと思って見送っている間に、あるときそれが巨大な「悪」となってわが身にふりかかることがある。」(141頁)
これが「今」なのだろう。その「悪」をはねかえす力がないことを自覚する。
色川さんは、いつも終末感を抱いていたように思う。それを抱きながら、それに巻き込まれないように自覚的に生きていた。
色川さんのご冥福を祈る。