朝日や日経が、「自民が単独過半数の攻防 与党で過半数の勢い」などというニュースを流している。私にはそれが正しいのかどうかわからないが、もしそういうことなら、わが日本の国民はどうかしている、としかいいようがない。
こんなに特権階級がのさばって、こんなに庶民が虐げられても、それを良しとする人々が多いということだ。
日本の政治文化は、まったく進歩がない、絶望的というしかない。
朝日や日経が、「自民が単独過半数の攻防 与党で過半数の勢い」などというニュースを流している。私にはそれが正しいのかどうかわからないが、もしそういうことなら、わが日本の国民はどうかしている、としかいいようがない。
こんなに特権階級がのさばって、こんなに庶民が虐げられても、それを良しとする人々が多いということだ。
日本の政治文化は、まったく進歩がない、絶望的というしかない。
この本も積ん読にしてあったもの。記されている内容は多岐にわたる。
だが書名からすると、第一部と第二部がメインだといえよう。あまり委しく書くつもりはないのでメモ程度に記す。
まず津田左右吉が、維新を薩長の欺瞞的なクーデターであった、ということを書いていたそうだ。知らなかった。私も、同じような考え方をしていて、薩長による作為的な近代天皇制国家こそが、近代日本をダメにしたと思っている。
そのイデオロギーとして水戸学が挙げられている。通常そうなのだが、それと荻生徂徠の言説を、子安はつなぐ。これは刺激的であった。近代天皇制につながる、近世における天皇再評価は、儒学者たちがその道をつくったのだが、そこに徂徠もいたとは。
かれらがつくった近代天皇制国家とは異なる国家構想をもったのは、中江兆民であった。
たしか鹿野政直の本に、「近代日本の国家構想」というような本があったように記憶している。
この本を読んで、もう一度近代天皇制国家の創出過程を振り返ってみたいと思った。
内容的にはそんなに緻密ではないが、問題意識を喚起させてくれた。
2006年刊。確か書評を読んで買ったものだ。今まで書棚に放置されていた。ふと読む気になって読みはじめ、一気に読みおわった。
スターリン体制。独裁者スターリンの悪行は知られている。よく分からない支離滅裂な理由を付して多くの人々を殺した独裁者。
その独裁者には多数の協力者がいた。協力者がいなければあの蛮行を行うことは出来なかった。しかし協力した者が次には殺される。なぜ殺されるのか、その理由が明確でないままに殺された。スターリン体制下で生きぬくということは、とてもたいへんなことだ。
長期にわたる自民党・公明党政権の下で、官僚やメディア関係者など、独裁的な政治家に自ら進んで忖度するように、スターリン体制下でも同じことが行われた。スターリン体制下では芸術家たちもそうした。
読んでいて、私が知っている芸術家たちが、スターリンに直訴状を出したり、スターリン体制下で生き延びるために策を弄していたことを知った。なかには、この人もか、という人もいた。ソ連では、生死に直接関わるからやむを得ないかも知れないが、それにしても、この人までも、という感想を持った。
ツァーリ、スターリン体制、そして現在のロシア。独裁という政治体制が続く。民主主義は、この国にとってはなかなか馴染まない制度のように思える。歴史のなかに刻まれた専制政治から脱け出すことは容易ではない。
さて、良いことばに出会った。
「もはや、歴史的事実などどうでもよかった。そこには、あってほしい事実が描かれていればよかった。それこそが、スターリン流の社会主義リアリズムだったのである。」(270頁)
「歴史修正主義」ということばがある。それはここに記された「スターリン流の社会主義リアリズム」と同義である。今の日本にも、それがはびこっている。
感想としては、「一見相互にばらばらな印象を」受けたが、それは著者にとっては想定内のことである。「エピローグ」にそう書かれていた。
今年はドストエフスキー生誕200年だそうだ。ロシアは専制政治が続いてきたが、しかしそのなかで世界的な作曲家や文学者を輩出している。独裁国家、専制政治の国家であっても、ロシアはすごい!と私はいつも思う。
昨日の『東京新聞』の「こちら特報部」は、小室さん、眞子さんの結婚に関する特集であった。記事は、この結婚に異を唱えることに対する問題を挙げていた。
私は、この問題をテレビやネット、週刊誌などで騒いでいることそれ自体に、強い異和感を持ち続けていた。
結婚は、「両性の合意」のみにより成立するのだ。
私は子どもが結婚するという報告を「ああそう」で受けた。私が結婚するのではない、個人と個人が好きになって一緒にいたいと思うから結婚するのだ。もしうまくいかなければ離婚すればよいのだ。
それは皇族であろうと変わりはない。家柄などを最優先して結婚するなど、好きでもない人と一緒に生活することほど不幸なことはない。誰でも幸福を追求する權利はあるのだ。
日本社会の一部に、日本国憲法の精神の婚姻の自由、それは日本国憲法だけではなく普遍的なあり方だ、それを否定する人々がいることに驚く。
一部の批判は、あきらかに人権侵害である。それが堂々と週刊誌などのメディアのなかで行われていたことこそ問題なのだ。
原理的に考えれば、このような「事件」は、天皇制があるが故に生じる。批判する人々は、どちらかといえば天皇制を擁護する立場の人のようだ。しかし彼らは天皇制そのものを擁護するのではなく、みずからの考えによって自分なりの天皇制の像をつくりあげ、それを基準として判断している。彼らは「主観的天皇制」の擁護者なのである。しかしそれは天皇制に対する敬意でも何でもない。彼らこそ、こう云ってよければ「不敬」なのだ。
私は天皇制は廃止したほうがよいと思っている。なぜか。明治維新に始まる近代天皇制はきわめて人為的・作為的な制度であるからだ。現代天皇制は、その近代天皇制を継承している。
眞子さんを巻き込んだこの度の騒ぎは、近代・現代天皇制がもたらしたものだとも言える。
雑多な誹謗中傷をものともせずに結婚に突き進んでいった二人の勇気と決意に、私は敬意を表したい。