日々の生活はなかなか忙しく、刺激がないと思考は活発化しない。
一日のうち、数時間は畑に出て、ジャガイモやタマネギを収穫したり、そして収穫後の農地を耕したり、また夏野菜の世話をしたりする。農業に関するアイデアが浮かんだり、作物の生長について考えたりすることもある。
また今月末の講座のレジメづくりで、その関係の本を読んだり、パソコンに打ち込んだりする。
すると、それ以外のことを考える契機がほとんどなくなってしまう。要するに、他者とのコミュニケーションがほとんどないからである。
今日は午後眼科に行った。半年ごとの点検である。半年前とほとんど変わらず、である。歯科と眼科は定期検診に行っている。歯と眼は、いつも酷使するからである。そろそろ耐用年数が近づいているという自覚があるからだ。
待合室で、岩波新書の『学問と政治』を読んでいた。日本学術会議に任用されなかった学者がその問題を問題として論じている。なかなか有益な本で、『世界』2021年12月号に記された内容について、それを補訂したものを新書として刊行したものだ。『世界』でも読んでいたのでアトランダムに読んでいるが、いくつかを記そうと思う。
「学問と政治」という書名であるが、学問というものが庶民と縁遠くなっているという自覚を、私は抱いている。ネット上でははっきりとフェイクとわかるもの、既知のもの、常識的なもの・・・とりたてて騒ぐほどのものではない情報が、さも新しいものであるかのように報じられている。ネトウヨが騒ぐ「南京事件」、「従軍慰安婦」、朝鮮人徴用工の問題など、その事実は確定していると言ってよい。しかしそれをいまだに否定して喜んでいる輩がいる。
学問研究の成果は公表され、それらは買わなくても図書館などで簡単に読むことができる。しかし、それらの成果は、庶民のなかに常識的な知となってはいない。テレビをはじめとしたメディアが「一億総白痴化」を図っているのかも知れないが、知は力を失っている。
本書の末尾には、宇野重規さんの「政治と学問、そして民主主義をめぐる対話」が掲載されている。『世界』に掲載した文のあとに、補充されたものが書かれていた。その部分を読みながら、宇野さんも同じような感慨をもっているのだと思った。それは次の文に表れている。
「学問を愛する人々の分厚い層を維持・発展させていくことが何よりも重要だ。社会から孤立してしまった学問ほど弱いものはないからね」
「学術的な本を読み、自分自身では研究をしないとしても、学問や研究を愛し、信頼してくれる読者の人たちとの幅広い関係を大切にしていかなければならない。」
「学術的な本」は売れないので発行部数が少なく価格も高騰している。私が大学生の頃は、学生は「学術的な本」を買って読んでいた。今は、少数の読む人と、ほとんど読まない多くの人に分化されている。「学術的な本」は庶民から、価格の点でも遠ざかっている。
学問研究の重要性は言うまでもないことである。それをどのように人々の間に伝えていくのかが問われているような気がする。
「すべての人が「学問って面白い。自分も研究をしてみたい」と思える社会、そういう社会に向けて努力することが結果的に、社会の発展につながると思う。」