坂口安吾の「堕落論」に、「日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供にあったにすぎない」という文がある。
昨日「あの夏の絵」を観ていて、「どつぼにはまる」という台詞を聞いた。「どつぼにはまる」とは、「ひどい状態になること、最低の状態であること」という意味である。
東京からヒロシマに転居してきたあずさは、平和教育を受けたこともなく、原爆に関して全く関心をもっていない。美術部の教師が、平和資料館の事業である、被爆者から話を聞きそれを絵に表現する事業が紹介されたとき、参加の意思をまったく持っていなかった。
しかし他の美術部員とともに、被爆体験を聞いてから、彼女は「どつぼにはまる」。彼女は想像力豊かな子どもであったのだ。被爆体験談そのものを想像する、そしてまたもし原爆が投下されたときの状況を想像する・・・・すると、彼女の脳裡にはその光景が描かれてしまうのである。
しばらく彼女は、登校できなくなり、家に籠もった。その家に、ひとみが心配して訪問してくる、ひとみとの話の中で、みずからの想像力を絵画として描くという作業に入っていく。
想像力、以前にも書いたが、日本人は想像力を働かせることをしないのではないかと思うこともある。想像力を働かせると、現実がどのように変わっていくか、変えられていくかを見つめることができる。
それをしないと、現実そのものに流され続けていくことになる。坂口安吾が指摘した「運命に従順な子供」という表現は、想像力を働かせることをしない、ということを言いたかったのではないかと、ふと考えた。
彼女は、豊かな想像力を働かせてしまったので、原爆がつくりだした惨状を見てしまい、また今後もし原爆が投下されたらどうなるのかも見てしまったのだ。
テレビは想像力を奪う。テレビは声だけではなく、その声に関わる場面をも詳細に見せる。想像力は必要ない。ただ見、聞いているだけで、時間はすぎていく。
しかし本を読んだり、演劇を見る中では、想像力が強く求められる。想像力を駆使しながら時間を獲得していく。これも以前に書いたが、演劇は親切ではない。そう簡単に舞台装置を変えたりできないから、同じ舞台がいくつもの場面に変化する。観劇する者はみずからの想像力でそれを補わなければならない。
テレビは、「運命に従順な子供」づくりのためには最適な道具なのである。