学生時代、福島正夫先生の「社会主義法」(「中国法」だったかも・・)という講義をとった。福島先生は高名な学者であった。先生の『地租改正の研究』という本を今ももっている。
しかし話し方はぼそぼそ、決して聞きやすい講義ではなかった。もちろん「おもしろい」ものではなかった。講義に参加している学生は多くはなかったが、しかし皆先生に敬意をもって拝聴していた。
学問というものは、決しておもしろいものではない。その先生のもっている知識や学問をほんとうに理解するためには、講義を受ける学生の知識(たしかレディネスとかいあったなあ)や真摯さが求められる。もしおもしろいと感じることができるなら、それは学生の側の主体的な知的努力と先生が提供する講義とが調和して、学生が「理解」できたという満足感から生まれるものであろう。
立教大学で講義中に、受講している学生が「もっとおもしろい授業してみろよ」と叫んだそうだ。ついでに記しておけば、「授業」ではなく、大学は「講義」である。
「おもしろい授業」にしたければ、学生にもそれ相応の努力や主体性が求められる。
新自由主義蔓延のなか、学校での教育も「サービス」とみなされるような風潮が強くなっている。学校の主人公は、まずもって子どもや生徒ではあるが、その主人公である子どもや生徒の学習する権利を保障するのが教員であって、子ども・生徒と教員は、学習権をめぐっての共同作業者なのである。
新自由主義というのはカネ儲けを最優先する考え方である。カネを出す=教育を買う消費者として、子ども・生徒そして保護者が登場するようになった。教員は教育というサービスを提供する者という位置づけになっていった。
その結果が立教大学の事件なのだろう。だが教育活動をカネが媒介する消費行動だとする認識は間違いである。
怒号を教員に浴びせた学生が、謙虚に学ぶ姿勢をもつこと、そうすればその学生の学びはよりよいものになるはずだ。学問研究は、まずもって謙虚さが必要だ。