3・11の大地震とあの大きな津波を見て、ああ自分は楽しいことや喜ばしいことは今後避けなければならないと思った。2011年の3月、私は早期退職した。退職後は、海外を旅しようと思っていた。しかし、あの地震と津波は、その思いを消し去った。
今年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻し、庶民を殺し、庶民の生活の場を破壊する姿を見て、あゝ自分は戦争が続いている限りは、戦争の姿を見続けなければならないと思った。今も、ウクライナを、ネットで見続け、早く戦争が終わらないかと心待ちにしている。
こういうときは、畑にいるのがよい。今は、雨が降ると、雑草がすぐに生長する。土であったところがミドリに覆われる。私はそれをとる。もちろん収穫もある。今日は、キャベツとズッキーニをとってきた。昨日はレタスとタマネギ。毎日、毎日、何らかの収穫がある。畑で動いていると、雑念が浮かんでこない。とにかく体を動かし続ける。
読書の時間は少なくなり、本を買うことが減った。買っても新書のように手軽に読めるものだ。
昨日、久しぶりの単行本が届いた。タリア・ラヴァンの『地獄への潜入』(柏書房)である。日本だけではなく、世界でヘイトスピーチ、ヘイトクライムが吹き荒れている。なぜか無数の憎悪がオモテに出てきている、それが集まって「力(暴力)」となっている。
私が生きてくるプロセスで、かくも憎悪がオモテで騒がれたことはなかった。人間が憎悪を持ち、それをオモテに出すということは、時に犯罪や事件となって表出することはあっても、集団となって憎悪を叫びあうという事態はなかった。
なぜなんだろう、と私は問いを持った。
きっと、人間には憎悪というものが潜んでいる、ということは想像できる。私もそれらしきものはないわけではないが、とりたてて叫ぶほどのものではない。それに、そうしたものはオモテに出すものではない、という何かしらの共通理解があったのではないかと思う。
ところが今は、その憎悪がオモテに出て、忌まわしい事態が世界中で起きている。政治家のなかにも、平気で憎悪を口にする者もでてきた。
私は、なぜこういうことが起きてきたのかを知りたくなった。ひとつの仮説ではあるが、私はインターネットが人びとの心の奥にしまわれていた憎悪を呼び覚まし、それぞれの憎悪をインターネットが結びつけたのではないか、と思い始めた。
この本には、ユダヤ人でアメリカ在住の女性が、そうした憎悪の集団に入り込み、その経験と怒りが記されている(と思う。まだ読んではいないので・・)。
憎悪の底には被害者意識もあるようだ。うまくいかないみずからの生を見つめたとき、うまくいかない理由を自分のなかに発見するのではなく、その原因を他者のなかに発見する。そしてその他者に憎悪を向ける。
私が生きてきた時代と現在とは大きく異なっているようだ。一般的には、憎悪は見えなかった。今、憎悪が街頭に出て、政治をも動かす。
退職後は静かな生をおくりたいと思っていた。しかし種々雑多な憎悪の表出を見て、なぜ?という問いを持ってしまった。
久しぶりに買ったこの本を少しずつ読んでいこうと思う。