有田芳生さんのTwitterを読んでいたら、和多田さんのことが書かれていて、70歳で亡くなられたと書かれていた。
私はどのような経緯で和多田さんと知り合ったのか記憶にない。和多田さんが晩聲社の社長をしていた頃に知り合ったのだろう。
さて本多勝一さん、筑紫哲也さんらが『週刊金曜日』を立ち上げる、その編集長になったから、という連絡があり、ついては浜松で本多さん、筑紫さんの講演会を主催するという企画がもちあがった。私は同誌の購読者らを募り、講演会を開催した。その準備過程で、右翼が本多さんを狙っているという知らせが警察からもたらされ、それを和多田さんに伝えたところ、すぐにやってきて、駅前の名鉄ホテルで善後策を話し合った。
まず警察に警備を依頼することを命じられ、私は浜松中央警察署に出向いた。警察との話し合いで、舞台の両サイドには関係者がすぐに飛び出せるように人を配置すること、最前列は確実な人で埋めることなどが決まった。逐一和多田さんと連絡をとり、警察との話し合いの結果を伝え対策を立てた。
当日、1993年12月18日、浜松駅に本多さん、筑紫さん、和多田さんが到着した。私は会場にいたので迎えに行かなかったが、駅到着の段階から警察の警備が始まった。私は会場責任者として警備課長と一緒にいたので、講演についてはきくことはなかったが、無事に終了し、そのあと懇親会に臨んだ。短時間の懇親会ではあったが、かつらをしない本多さんを、はじめてみることができた。筑紫さんは終始和やかであった。
そのときの色紙が残っている。
懇親会終了後、大きなタクシーが横付けされ、3人は次の講演会場である甲府に向かった。
のち、私は警備課に菓子折を持参し謝意を示した。
それ以降、和多田さんは『週刊金曜日』の編集長を降り、私も和多田さんとの交流はなくなった。
何年か前、知人が和多田さんに会い、和多田さんが私が元気でいることを聞いてきたことを伝えられた。私は和多田さんも元気なのかと思ったが、連絡をとることはしなかった。
和多田さんは2016年に亡くなられていた。6年前である。短い期間の交流だったけれども、本多さんらの講演会は忘れられない思い出である。
講演会開催に尽力した方々とは今も交流が続き、何年かおきに会っている。しかし『週刊金曜日』の購読を続けている者は少なくなっている。
〇〇さんが亡くなった、という知らせが時々届く。寂しいけれども仕方がない。