石堂清倫の本は、何冊か読んだことがある。『わが異端の昭和史』(平凡社)、『大連の日本人引揚の記録』(青木書店)など。『20世紀の意味』(平凡社)は書棚にあるけれども、未読である。
石堂については、亡き歴史学者・田村貞雄さんからなんども話を聴いたことがあって、その関係から石堂については関心を抱いてきた。この私家版の本は、おそらく田村さんから入手したものだろう。
石堂清倫は、1904年生まれ、2001年に亡くなっている。その間波瀾万丈の人生を送りながら、うらやましいほどの知性で、いろいろな文献を翻訳し、みずからも著作を発表した。
石堂はマルキストであるが、グラムシの研究を行い、共産主義者の問題点を厳しく抉りだしていた。その謦咳に接した人は多く、本書はそのような人びとの文が並ぶ。その中から紹介したいものは多いが、ここでは田畑稔の「石堂清倫と21世紀の変革論」を簡単に紹介したい。現在のような閉塞状況の中で、どういう打開策があるのか、その方策が示されている。
田畑は、石堂の『20世紀の意味』について書いているのだから、その本を読めばよいのであるが、今はその時間がないので、田畑の概説を紹介する。石堂は、同書で「新しいアソシエーション」、「非暴力の論理」、「日本国民の自己改造」を提唱しているようだ。
田畑は、「新しいアソシエーション」についてこう書いている。なおアソシエーションとは、「一定の目的を果たすために、同じ関心をもった人びとが人為的・計画的につくった集団」のことである。
第一の「新しいアソシエーション」についてみますと、まずは国家権力を取って、その次に上から社会改造やる、こういう変革論を脱皮しないとダメであるという問題意識があろうかと思います。上からではなく、生活の中から市民社会の中から生まれる生活者や従属諸集団の多様なアソシエーションが、対抗的な価値やモラルを掲げて陣地形成を行ない相互に提携して行く。こういう対抗ヘゲモニーの力で長い時間をかけて歴史的移行を促していかなければならない。
確かに石堂の指摘の通りで、現実にモラル崩壊、とりわけ政治のレベルでのモラル崩壊が著しい日本社会でこそ、モラル崩壊をしている「彼らの」価値に「対抗的な価値」を提示して、高いモラルを掲げて粘り強く闘うことが、今求められているのだろう。これはアナキズム的でもあり、アナキズムが注目されている背景とも重なるように思われる。
そして「非暴力の論理」。彼らが、世界中の権力者たちが「暴力」に依存している現代だからこそ、「非暴力の論理」を対置していかなければならない。同感である。そしてそれは、モラルともつながる。
もうひとつ。「日本人の自己改造」であるが、これがもっとも難題である。カネ、カネ・・・・という価値観に染め上げられ、「自己責任」観念に縛られている日本人を「自己改造」することは、無理に近い難事である。
しかし、石堂清倫のこの主張は、彼の背後にある「モラル・ヘゲモニー」(この場合の「ヘゲモニー」は、主導権という意味で考えてよいだろう)が影響しているようで、モラルの面で主導権を握るということは、重要だと思う。
とにかく、石堂の『20世紀の意味』を読まなければならない。
藤森節子氏の「なお千里を馳ける志の人」で、石堂という人間をこのように紹介している。
「神亀は命ながしというもいつかは終る時あらん、空に騰る蛇は霧に乗るもやがては土灰になりはてん、老いたる駿馬はうまやに伏すも千里の彼方に夢を馳す、烈士は年老ゆるとも壮き心のやむことはなし」
『三国志』の魏武帝曹操の詩「歩出夏門行」の一節だとのこと。石堂は「老いたる駿馬」であり、「烈士」であった。あやかりたいと思う。