浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

カネ、カネ・・・

2016-01-26 08:33:59 | 社会
 社会の動きを見ていると、人びとがカネに向かって、カネを求めて、さらに多く集積しようと蠢いていることがわかる。親戚など身近にいる人も、同じような傾向が見られる。集積して何か有効なことに費消しているわけではない。しばしば「オレオレ詐欺」などでたくさんのカネが奪われたという記事を見るが、なぜそんなに多額のカネがあるのか、いつも疑問に思うのだが、カネは蓄積されていくだけのような気がする。
 
 政治家たちは、もっと派手にカネを集めまくっている。政治家になると、富裕者の仲間入りをするというのが現代という時代だ。
 明治期の政治家の手記などを読むと、選挙資金を集めるために、土地を売り、親戚からカネを融通してもらい、というように、みずからの資産を費消しながら政治活動をしていた。今はそうではない。保守系の議員は、企業などからの多額の献金を受け取り、国民から政党助成金を収奪し、明治期の政治家のように財産を失ったりしない。むしろ財産を殖やしている。

 甘利という大臣は、まさにその渦中にある。不法な資金集めが白日の下にさらされた。彼はしかしどのように、彼自身の危機を脱するのか。政治権力というものは、決して公正公平ではない。権力が守ろうとした者は守られる。
 以下にリテラの記事を紹介するが、果たして特捜は動くのだろうか。検察も警察も、権力者の手駒であるから、安倍ら権力者が守ると決意したら、守られるのだろう。今朝のニュースで、“「甘利さんは守る」強気の安倍首相”という記事を見た。

 甘利が守られたら、カネ集めは不法、不当なことを行っても許されるということになる。現代資本主義社会における「道徳感情」は地に堕ちているから、日本社会はさらにさらに、今度は地獄に落ちることであろう。

http://lite-ra.com/2016/01/post-1917.html
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『世界』

2016-01-25 21:36:58 | その他
 毎月購読している雑誌の一つ、『世界』。今のような時代、発行部数は減っているのだろうと思う。高校生の時から、様々なことを学ばせてもらった雑誌だ。時間を見つけては読み、内容がよかった文については、目次に花丸をつけていく。

 最初に読んだのは、「正義のたいまつは引き継がれるか」である。もと朝日新聞記者の植村さんが在籍する大学であることが理由になって、右翼などから激しい攻撃を受けた大学、北星学園大学。大学はみずからにしかけられた攻撃に抗することができたか。
 植村さんへの右翼からの攻撃は、根も葉もない不当なものであったことは、植村さんみずからの闘いなどで、すでに明らかになっている。しかし、結論から言えば、北星学園大学は、植村さんを放出する。

 北星学園大学も、警備費にカネがかかったり、不当な攻撃で経済的な損失なども大きかったようだ。北星学園大学も、被害者であることは十分に理解できる。だが、結局は、放出する。
 韓国の大学からの温かい手がさしのべられ、植村さんは韓国の大学の教壇に立つことになる。それを、北星学園大学は、おそらく喜んだ。これで警備費に多額のカネをつかわなくてもよい。あるいは、「植村さんがいるかぎり日常的に警察が出入りし、わたしの研究の自由が守られない」と考えた教員も、おそらく安堵する。

 「正義のたいまつ」を燃やし続けることは大変なことなのだ。だが、燃やし続けられなければならない。

 文の中に「遠吠え民主主義」ということばがあった。「返り血を浴びないですむ遠い問題にはワンワン吠え、血を流すかも知れない近い問題には黙る」。

 植村さんへの不当な攻撃は、至る所で現代日本の民主主義の状態を明らかにしていった。

 『朝日新聞』は、もと朝日の記者であった植村さんを守ろうとしなかった、北星学園大学も、外からの声にやむなく一時は守ったが、結局植村さんにでていってもらう。

 日本の民主主義は、もう危機を通り越しているような気がする。

 不当な攻撃を行った右翼たちは、「勝利」を感じているだろう。そして今度は誰を狙うか・・・そう考えているのではないか。

 1930年代、美濃部達吉の天皇機関説が攻撃され、京都大学の滝川幸辰がやられ、津田左右吉が攻撃され・・・・・

 同じ道を歩んでいるような気がする。

 この文は、現在の日本の民主主義の実態を示しているように思えた。
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希望

2016-01-25 19:01:56 | 日記
 堀田善衛の『時間』を読んでいると、時に考えさせられることばに出会う。

 その一つ。

 希望は、ニヒリズムと同じほどに、担うに重い荷物なのだ。われわれは死ぬまでこの荷物を担ってゆく義務がある

 実は、ボクも、希望とニヒリズムを行ったり来たりしている。昨日、宜野湾市長選で安倍政権が推す人物が当選したと聞くとニヒリズムに陥り、しかしこの結果は宜野湾市民が辺野古新基地建設に賛成したわけではないと思い直し、希望を「つくりだす」。
 何度も何度も、現実の動きによってニヒリズムに落ち込む、しかし、その時、人は理念のために生きることはない、ということで納得させ、何とか希望を「つくりだす」。

 おそらく、この往復は、死ぬまで続くのだろう。だから、堀田のことばに、納得するのだ。

 とにかく、希望という「重い荷物」を背負っていくしかない。

 『時間』は、いろいろな方向に思考を広げていく。
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極寒の『時間』

2016-01-24 20:51:34 | 読書
 しんしんと夜は更けて行く。最大級の寒波が来ているせいか、ストーブをつけているのに、足元は冷たい。しかしその冷たさに気がつかないままに、堀田善衛の『時間』を読み終えた。

 1937年11月から翌年の10月まで、南京で生きた中国人となった堀田が、そこで見た、体験したであろう事態、それはもちろん限定された時空のなかでのものであるが、その事態のなかで考え、思ったことを叙述するという小説だ。それはもちろん、過去から未来へと一方通行で過ぎていく時間の流れに沿って記されていくのだが、その思考や思惟は、時空を超えることができるが故に普遍性をもったものとなる。

 そしてこの本は、歴史の本ではない。特定のきわめて世界的に有名な実在した事件の渦中を「舞台」として書かれたものではあるが、その「舞台」を描こうとしたものではなく、その「舞台」の上でいかなる思考や思惟が為されたか、その可能性について書かれたものではないかと思うのだ。極限状態の中での思考や思惟の可能性、その意味で、この本はまさしく文学である。

 その「舞台」で、無数の人びとが虫けらのように殺された。主人公も、妻と子ども、そして嬰児を殺された。そして従妹が日本軍の暴虐により瀕死の状態に追い込まれる。そのような現場(「舞台」)で、どのような普遍的な思考や思惟がなされるのか。

 いうまでもなく、ボクはいつものように赤線を引きながら読んでいった。その赤線を引いたところにボクは立ちどまり、たちすくみ、その思考や思惟に揺り動かされながら、読み進めた。

 最後のことばは、

 人生は何度でも発見される。

 であった。まさに人生の可能性、未来という時間に開かれて終わっているのだが、しかしボクは、このことばに、実は圧倒された。

 人生は、この時間は、われわれが普通想っているように、生から死へと向かうだけのものではなくて、死の方からもひたひたとやって来ている

 南京で起きたことは、南京にいた中国人の生から死へという、ある意味順当な時間の流れを断ち切り、彼らの生に向けて死を差し向けたのである。その主体は、日本(軍)である。

 戦争(戦闘)というものの本質は、ここにあると思う。

 堀田が、極限の時空に置かれた主人公として生み出した思考や思惟は、まさに普遍性をもったものとしてある。そうしたところに赤線を引いてあるのだが、そのすべてを紹介するわけにはいかないので、ぜひ読んで欲しいと想う。辺見庸の「解説」もよい。


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チラシ広告

2016-01-24 14:51:33 | 日記
 新聞に折り込まれていたチラシの中に、中部電力のそれがあった。なかなかよい紙でもちろんカラー印刷。これも電気料金で作製されたのだろう。「日本の問題です」という大きな字。そして日本のエネルギー自給率は6%で、「エネルギー資源のほとんどを輸入に頼る現状では、国際情勢の変化等により供給に支障が生じた場合、私たちの暮らしにも様々な影響が懸念され」るとあり、裏には石油、石炭、天然ガスそれぞれを原料とした場合の問題点が列挙されている。
 もちろん、原発の問題は一切記されていない。たとえば、放射性廃棄物の処理の問題など、原発が抱えている問題には一切触れない。
 要するに、原発の再開へ世論をもっていこうというチラシである。

 もうじき家庭でもどこの会社から電気を購入するかが自由となる。そうしたら、もちろんボクは、原発を再開しようとしている中部電力との契約はやめる。高くなろうとも、自然エネルギーで発電する会社から受電しようと決意している。

 福島であのような事故が起きたのに、今なお再開しようという中部電力の姿勢に怒りをもちながら、断固として中電からの受電はやめるのだ。 

 福島の事故があり、あんなに大きな被害を生み出し、いくつかの自治体を破壊したにもかかわらず、政府も電力会社も、そして財界も、反省することなく原発依存へ邁進しようとしているが、ボクはそれに抗する「ことば」、すなわち反原発であるが、そしてそれはきわめて正当な主張なのだが、それが大きな力となって政治を動かすまでにいっていないという事態に、日本の頽廃を感じる。

 その頽廃した現在の日本の時空のなかで、いかにそうした反正義の輩に、彼らのほうが圧倒的に力をもっているが、抗していくかを考えなければならぬ。
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少数者

2016-01-24 10:54:30 | 日記
 昨日ボクは近藤真柄『わたしの回想(上)ー父堺利彦と同時代の人びと』(ドメス出版)を読み終えた。いろいろな本を、並行しながら読み進めているのだが、一つの流れとして、明治大正昭和戦前期の社会主義者についてがある。

 なぜそういう本を読む気になっているのかをみずからの胸に手を当てて考えるのだが、そのなかにある種の恐れというものがあることに気付いた。それはボクたちが少数者になるのではないか、それも圧倒的な少数者に。

 1945年以前の社会主義者たちは、それこそ筆舌に尽くしがたい苦難の人生を歩んだ。国家権力から激しく弾圧され、社会からは孤絶を強いられ、しかしそれでもみずからの思想を貫く。暴力に屈することなく生き続けたその強靭な意志。そうしたある種孤高の姿を学んでおかなければならないのではないかという気持ちである。

 著者の近藤真柄さんは、堺利彦の娘である。しかしもうこの世にはいない。
 父である堺利彦は、現在の社会主義者が陥っている狭量なセクト主義とは無縁な、誰にでも、誰とでもつながるという気風をもっていた。だから、堺の周辺には、幸徳や大杉、その他雑多な志向をもつ社会主義者が集った。真柄さんも、そのなかにいた。したがって、そうした人びととの交流をみずから体験され、それぞれの社会主義者の人生の断片を知り、そして書くことができた。
 
 もう全員が鬼籍に入っている社会主義者たちの生の一断面を知ることができる、というのが本書を読む動機である。そしてもうひとつ、真柄さんは戦後も生き、名古屋にある橘宗一少年の墓について、そして静岡にある大杉・野枝の墓について言及もしている。静岡のそれについては、墓守のひとりとなったボクにとっては、貴重な記録でもある。

 杉山金夫さん、海野福寿さん、市原正恵さん・・こういう人たちが、静岡の大杉・野枝・宗一の墓の中心的な墓守であったのだが、今では皆さん鬼籍に入ってしまった。
 本書には、その墓にまつわることが記されている。それを読むと、墓をめぐって無数の人びとのつながりがあったこと、そして自分自身もその人たちとつながっていることを実感するのである。墓をめぐる諸々のことは、先人たちがやってきた、ボクはまさに記録を頼りに何人かの人びとと墓守だけをする。墓誌を建設したり、墓前祭を盛大に行っていた時代が去り、ある意味小規模になった墓前祭を維持するだけの毎年の9月。

 しかしそうであっても、そこに葬られている人の意味というものを、ボクは考え続けなければならない。
 ボクの机の下には、大きな袋の中に、大杉や野枝に関わる本や資料がある。そしてその傍らには、大杉の全集がある。
 21世紀のこの日本という時空のなかで、彼らをどう意味づけるのか。ボクの仕事の一つである。

 さて並行して、堀田善衛の『時間』(岩波現代文庫)を読んでいる。南京虐殺事件が行われているその渦中に生きた中国人の目を通して、その事件を捉えようという堀田の小説である。

 現在という時空が、少数者であった社会主義者たちを、そして堀田の『時間』を無視して通り過ぎていかないように、何とかしなければならない、そういう思いが、ボクにはある。
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歴史資料

2016-01-23 18:56:25 | 政治
 日本社会の公務員攻撃。いろいろな場で自営業の方と話をすると、公務員は減らさにゃあならんと主張する。先進国の中で、もっとも公務員数が少ない日本。まだ減らしたいのか。
 バス会社が不正なことをやっても、調査点検する人数が圧倒的に足りない。労働者の労働条件を点検調査する労働基準監督官も足りない。公務員を減らせば減らすほど、ウソをついてでもカネを儲けようとする輩に自由な活動の場を与えることになるのだ。

 実際、公務員はあまりに足りない。

 どこの国でも、未来において歴史の審判のための資料は残している。ロシアやアメリカは、さすがに大国だけあって、ありとあらゆる資料が残されている。

 ところが日本はそうではない。戦時中の資料についても、みずからの戦争犯罪を追及されるのが怖いからといって、戦争直後に何日もかかって資料を燃やし続けた。卑劣な支配層だ。そういう卑劣な支配層の流れをくむ現在の支配層も、未来における歴史の審判ができないように資料をなくしたり、隠したりしているようだ。だからこそ、そうした歴史資料への軽視が目に余る。これでは先進国とは言えないにもかかわらず・・・
 今日の『東京新聞』記事。

歴史資料なのに廃棄!? 国立公文書館 18年度にも満杯

2016年1月23日 朝刊

 歴史的に価値が高い公文書などを管理する国立公文書館の本館(東京都千代田区)と分館(茨城県つくば市)の文書保管能力が、早ければ二〇一八年度中にも限界となる可能性が生じている。新館の整備も具体化していない。各省庁で保管期限が切れた重要文書が廃棄される懸念がある。特定秘密保護法施行で政府の情報公開への姿勢が問われる中、保管に支障が出れば国民の知る権利が阻害されかねない。 (中根政人)

 内閣府によると、本館の九割、分館の七割の保管場所が埋まり、あと三~四年で満杯となる。新館は衆院議院運営委員会の小委員会で建設地の選定を進め、昨年通常国会中に結論を出す方針だった。だが昨年八月の中間取りまとめでは、意見調整の遅れから国会議事堂周辺の二カ所を候補地に挙げるにとどまった。

 公文書管理法に基づき、公文書は保管期限がくるまで各省庁が管理する。保管期限後は、政府が「歴史資料」と判断した重要な文書は、公文書館に移る。

 保管能力が限界を超えれば、本来公開すべき公文書が各省庁で廃棄されることにつながる。特定秘密の指定を解除された文書も、解除後は一般の公文書と同じ扱いになるが、歴史資料と判断されるべき文書が多いとみられる。本来は公文書館で公開されるべき文書が政府の都合で廃棄される可能性を助長しかねない。

 公文書館は施設面などで諸外国に比べ、貧弱さが問題とされてきた。一三年度に保管期限が終わった文書ファイル約二百八十万件のうち、公文書館(一部は外交史料館など)に移されたのは0・3%の約九千八百件にすぎない。公文書の所蔵量も諸外国より劣っている。

 職員は五十人に満たず、米国の約二千七百人や英国の約六百人に比べ圧倒的に少ないのが現状だ。

 公文書管理の問題に詳しい長野県短大の瀬畑源(せばたはじめ)助教は「国の省庁は、行政文書を国立公文書館に移管して情報公開を進めることにそもそも消極的だ。施設や職員の拡充と同時に、各省庁に文書移管を要求する権限の付与など、公文書管理の抜本的な制度改革が必要だ」と指摘している。
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石川三四郎

2016-01-22 23:26:17 | 日記
 鶴見俊輔の文に、「方法としてのアナキズム」がある。鶴見の考え方にはアナキズム的な思考がはりついている。

 だから鶴見は、石川三四郎についても書いている(「石川三四郎」)。その文の最初は、『安曇野』を書いた臼井吉見の文である。
 『安曇野』は長野県松本を中心とした歴史小説である。いつか読もうとは思っているが、あまりにも大部でその希望は叶えられていない。ちなみにボクが臼井の名を知ったのは高校生の頃。筑摩書房が『展望』という月刊誌を発行していて、それを時たま読んでいたのだが、そこに臼井の文が載っていた。

 さてその文。なかなかである。

 人間とは、命を終える瞬間まで、二つの闘いをやり抜く存在である。(石川三四郎は)そういう考え方であります。二つの闘いとは何かというと、一つは、外なる社会の不合理と闘うということ、もう一つは、内なる自分と闘うということ、自分の内なる“無明”と闘うということです。ー無明とは、私利、私欲、エゴイズムをはじめ、人生は何のためにあるか、何のために人生を生きるかっていうことにさえ無関心で、考えようともしないような愚かな状態を無明って名づけたようでありますー人間はこの二つの闘いを同時にやり抜かなけりゃならない。・・・・・・何百人という人たちに、『安曇野』には登場してもらいましたが、一番敬愛する人は誰かと訊かれれば、石川三四郎を選びます。

 その後、石川について、鶴見は論じていくのだが、おそらく鶴見も石川三四郎が好きだ。

 石川の思想を踏まえながら、現実に生起するいくつかのことを整序していく鶴見の筆致に、教えられるところ多いのだ。

 たとえば、「権力批判の少数派の立場をもちこたえる思想的伝統は日本ではきわめて薄い」。

 その通りである。ボクも、多くの人々の豹変、あるいは「転向」する姿を見続けてきた。

 またこの記述も、なるほどである。

社会批判の運動は、しばしば、というよりも、ほとんどいつも、自分たちの運動そのものの絶対化を前提としている。そこから、社会批判の運動には、それが科学を看板にかかげている場合にも、狂信性がつきまとい、しかも、みずからの狂信性に眼を向けようとする意志をもたない。

 いろいろな運動に関わってきたボクも、そうした「狂信性」に苦しめられた経験があって、そうした「狂信性」をもつ組織とは、生理的に同席できなくなっている。

 石川三四郎、学ぶべき対象として、今、ボクの前にある。
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『大杉栄全集』(ぱる出版)

2016-01-22 15:51:40 | 
 今日、『大杉栄全集』別巻が届いた。これで全巻がそろったことになる。大杉の全集は過去三回刊行されているが、今回は50年先を見すえて編集されたという。確かに、きわめてしっかりした編集で、大杉が書いたものはおそらくほとんどすべて収録されていることだろう。


 巻末に収載されている大杉の著書目録、年譜など、編輯に携わった方々のご苦労がしのばれるものとなっている。
 またこの別巻につけられている月報、そこに掲載されている文の重さ。
 ボクは本が届けられると同時にいつも月報に目を通すのだが、それぞれの方々が大杉や野枝にどうかかわられているか、関わってこられたか、その思いが、それぞれの歴史を背負いながら記されていて、大杉や野枝の力がそれらの人々に拠ってさらに強化されていると感じるのだ。

 ボクたちは生まれ落ちたときから、制約された時間と空間のなかを生きる。生まれる前の歴史がつくりだした時空は、当然限定されたものであって、その時空を、ボクらのささやかな力を添えることによって成りたたせ、また少しだけ変化をつける。

 だがボクらは、大杉栄が書いたものを読むことによって、制約された時空を超えることができる。もちろん大杉だけではない、人びとが、過去、制約された時空の上であがき、苦しみ、闘い、そして人を愛するという、その真っ只中で書き綴ったものが、今を生きるボクらに示されることにより、ボクらは時空を超えて生きることができる。

 大杉や野枝、中江兆民、田中正造らが書き綴ったものは、ボクらがそれらを読みこなすことによって、現在という時空にも生きるのであって、ボクらは彼らの同志的存在として、彼らとともに現代という時空であがき、苦しみ、闘い、そして人を愛し、そして後事を託してこの世を去って行くのである。
 
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今は静か

2016-01-21 21:39:14 | 日記
 今日の朝は、小鳥のさえずりを聞きながら起床した。一昨日、昨日の寒さも峠を越えたと思った。

 今日は、ボランティアの社会問題の講座。月一回だけやっている。テーマは、「アベノミクスの今」と「マイナンバー制度」の二つ。「アベノミクス」が始まってからの経済統計を示しながら、いかに日本の経済や、労働者の所得が減少したか、そしていかに富裕者が増加したか、消費税の増税は何をもたらすか、そうしたことを話し、マイナンバーについてはその危険性を指摘し、この制度の拡大を阻止することの重要性を話した。

 夕方、実家の隣家の生け垣の刈り込みをする。その頃、西からの冷たい強風が吹きまくった。遠州地方は、「からっ風」が強く、風がないとほっとするのだが、今日の夕方は吹きに吹きまくった。刈った枝が飛ばされていくのだ。これは長時間は無理だと判断し、1時間ほどでやめた。

 今は風はないようだ。

 静かに『現代思想』8月号の石原俊論文を読む。硫黄島の戦前戦後の歴史に言及しているが、小笠原諸島の住民は帰還できたが、硫黄島住民は戦後帰還を許されず、今も「難民」状態だ。「戦後」はまったく終わっていないことが指摘されている。
 こうした歴史的事実から「戦後」を照射することが求められている。

 『現代思想』を毎号買っているわけではないが、考えさせられる文が並ぶ。

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「法」なき時代

2016-01-21 08:07:56 | 社会
 社会生活が円滑に進むように、社会には法やルールがある。そうでなければ、権力者や力を持った者が自由に振る舞い、庶民や社会的弱者は彼らの下で呻吟することになる。
 それは、日本においては中世以前に戻ることを意味する。近世以降、もちろん大名などは例外とされたが、法などが整備され、一定の安定的な社会がつくられた。

 21世紀は、しかし、そうした安定性が消えていく時代のようだ。

 その一つは、昨年の「参戦法」の強行採決である。「参戦法」は、日本国憲法の精神を完璧に蹂躙するものである。アベ政権は、日本をアメリカに差し出したのだ。

 またもう一つは、権力者が、批判するメディアを葬り去ろうという策動が強まっていることだ。まさに民主主義が無化されようとしている。それについて、今日の『中日新聞』社説を掲げる。


キャスター降板 何が起きているのか  2016年1月21日

 NHKや民放のニュース番組で著名なキャスターらが相次いで降板すると報道されている。安全保障関連法案について厳しい立場だった人もいる。放送の世界でいったい何が起きているのだろうか。
 テレビ朝日「報道ステーション」のメーンキャスターを務める古舘伊知郎さんが降板する。同じ三月末にはTBSの「NEWS23」のアンカー岸井成格(しげただ)さんも…。NHKの「クローズアップ現代」のキャスター国谷裕子さんの降板も検討されている。
 相次ぐ降板報道が、さまざまな臆測を呼んでいる。政権に批判的だったからではという風評もある。確かに古舘さんは記者会見の場でも「キャスターは反権力の側面がある」と語った。岸井さんは安全保障関連法案に対して「廃案に向けて声を上げ続けるべきだ」と発言したこともある。国谷さんは集団的自衛権の問題で、菅義偉官房長官に鋭い質問を浴びせたことがある。まさか三人の降板が権力からの圧力や自制の結果ではないことを祈る。
 しかし、著名なキャスターの降板は、放送界が政治報道に萎縮しているのではないかという印象を与えることは間違いなかろう。
 そもそもNHK会長人事が「首相のお友達を据えた」と言われた。一昨年末の衆院選のときは、自民党が在京各局に「公平中立、公正の確保」を求める文書を出したし、昨年にも任意にせよテレビ朝日とNHKの幹部から事情聴取している。権力の動きもまた目立っているからだ。

 政治報道の番組はストレートなニュースが中心で、「解説や評論が減った」という声もある。「政治そのものが扱われなくなった」という声も聞かれる。事実ならば、自由闊達(かったつ)であるべき放送ジャーナリズムの衰退である。
 もし政権の意向を忖度(そんたく)したり、報道内容を自粛したりしているならば、放送による表現の自由を定めた放送法の理念にもとる。
 同法一条の「不偏不党」の言葉の意味は、言い換えれば「自立」か「独立」である。それを保障するのは公権力の側である。
 「政治的に公平」という言葉も、自由であるからこそ、自律的に公平さを保ってほしいという倫理規定にほかならない。権力から離れ、自らの掲げた理想を目指し、自らの理性に従って権力を監視するのである。
 テレビが政治的に元気でないと、この国の民主主義も元気に育たない。


 さて、食品廃棄物の横流し問題。廃棄物処理業者の「ダイコー」。どこからか廃棄物を処理すると契約して(つまりカネをもらって)、さらにそれを処分せずに「みのりフーズ」へ。「みのりフーズ」は、麺類製造業の許可しかもっていないそうだ。それが肉類はじめ、なんでも売っていた。
 そして静岡県の食品製造業者、まぐろスライスの廃棄を引き受けて自社では処分せず「ダイコー」へ。しかしその業者は廃棄物処理業の許可を得ていない。

 このように、法を無視して、勝手のし放題。法を蹴散らして、あくなきカネ儲けを追求する輩たち。
 彼らが21世紀の「主役」なのか。まあ、法を無視するのは、甘利大臣はじめ、政治家の大半もそうである。

 かくて、日本はどんどん「中世化」していく。戦国の動乱である。

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鶴見俊輔に学ぶこと

2016-01-20 10:09:07 | 日記
 昨年の『思想』12月号に、「追悼 鶴見俊輔」という座談会が掲載されている。
 余分なことだが、この号に掲載されている論文、「霊性論」、「カントの超越論的観念論の歪んだ論理空間」など、一般社会にうごめく庶民とは全く無関係の論考が並ぶ。こういう知識階級の言説と、庶民の生活における言説とは、おそろしいほどの乖離がある。知識階級は、そうした乖離を埋めようとしない。

 さて、鶴見の思想が、栗原彬、見田宗介、吉見俊哉によって紹介されていくのだが、「権力者」に関する鶴見の「恐れ」がもっとも関心を抱いた。

 (鶴見は)自分はうっかり権力者になってしまうかもしれないと。そのことに対する恐れに、ものすごく敏感なのです。
 本当は世の中っていうものは、加害と被害の無数の連鎖であって、全ての人が、どんなに底辺に近い人でも、もっと下の人とか周りの弱い人に対しては、権力者になってしまう恐れがあるわけでしょう。そういうことに対する自覚みたいなものが、鶴見さんには強くあった。


 ボクは、今までも何度か書いてきているが、人間にはタテ関係に生きる人とヨコ関係に生きる人がいて、前者のほうがずっと多いこと、ヨコ関係に生きる人びとはそんなに心配しなくても「権力者になってしまう」ことはほとんどないということだ。鶴見は、もちろんヨコ関係に生きる人。だから鶴見の「恐れ」は、タテ関係に生きる人の杞憂なのである。鶴見は、自然体でいたのであって、意識的に「権力者になってしまう」ことのないようにしていたということはないだろうと、ボクは思う。

 ちなみに、ヨコ関係に生きる人とタテ関係に生きる人とは、もちろん交流できるが、その交流は長つづきはしないということだ。ヨコ関係に生きる人びとの周りには、ヨコ関係に生きる人びとが集まる。その方が居心地がいいからだ。

 タテ関係に生きる人びとが、「権力者に」なろうと努力している姿、上にへつらい下に居丈高になる姿を横目で見ながら、ヨコ関係に生きる人びとはおのれの生きる道を歩むのである。


 
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悪徳業者

2016-01-20 09:34:44 | 社会
 朝、布団の中から空を見る。ものすごい速さで雲が流れていく。いつもは家の近くの電線で、下にある車の上に糞を落としながら談笑している鳥たちのさえずりも聞こえない。時折、強い風が唸りながら通り過ぎていく。

 今の日本社会も、冷たい強風が吹き荒れている。

 産廃業者「ダイコー」、食品卸業「みのりフーズ」。ゴミを食品として流通させるという「芸当」を平然と行い、カネを儲ける。産廃業者は、依頼された会社から、そして「みのりフーズ」の両方からカネをとる。「みのりフーズ」は、タダ同然のゴミを食品として販売し利益を得る。

 資本主義社会の本質を、露骨に示している。資本主義社会では、カネを儲けた者が勝ちである。もちろんそうならないように、経済学者は「道徳」を具備することを訴え、行政機関は「規制」を行う。

 しかし、1980年代からの資本主義、それはもう亡くなったがミルトン/フリードマンを中心とするシカゴ学派の面々が、「規制」を撤廃せよ、自由に儲けさせる社会を作るべきだ、と主張し、フリードマン自身も「道徳」というか「倫理」とか、そういう人間的な感情を歯牙にもかけることなくカネ儲けを行っていた。

 日本の高級(高給)官僚はアメリカに留学し、そうした「学説」を学び、新自由主義にもとづく社会をつくりあげてきた。

 富裕者たちは、そうした政策に飛びついた。みるみるうちに、資産が増えていったからだ。さらに最初から良心なんて持ち合わせていない輩が、「規制」もないし、どんなことをしてもいい、とにかくカネ儲けをしようと様々な業種に参入してきた。自分が行ったことが、他人や社会にいかなる損害を与えようとも、気がつかれないうちにやっちまえとばかりに、カネ儲けにいそしむ。

 運悪く、「ダイコー」、「みのりフーズ」、そしてバス転落事故を起こした「イーエスピー」は、悪事がばれてしまった。

 だが新自由主義が席捲する社会では、有象無象の輩が、それこそ「自由」にカネ儲けを行っている。

 こういう不健全な資本主義は、いずれ歴史のくずかごに捨てられることだろう。
 人類は、賢明であると、ボクは信じたいのだ。

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FAX

2016-01-20 00:08:09 | 日記
 昼間、PCに向かっていたら、電話の呼び鈴が鳴った。受話器を取ったら、FAXであることがわかった。受話器を置いて、しばらくして印字された紙を見たら、ある特定の人物の確定申告に関する書類であった。

 以前も何度か建築関係のFAXが入り、その都度間違いであることを電話で知らせたが、申し訳ないでもなく、「あ、そうですか」と返され、しばらくして同じところからまたFAXが届いたことがあった。

 今日のFAXについて、どうしようかと考えたが、知らせるのはやめた。

 FAXを送って、放っておく方が悪い、と思う。

 ボクは、FAXを送ります、とか、送りました、という連絡を入れている。

 FAXを送るときには、電話番号を間違えないようにしよう。
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どこでも同じか・・・?

2016-01-18 22:28:42 | 政治
 SMAPが、残留か。

 昨年末のNHK紅白歌合戦、ボクは見ていないが、ジャニーズ事務所の支配下にあったそうだ。芸能界というのか、ジャニーズ事務所の力がすごいらしい。ジャニーズ事務所にいる芸能人、事務所幹部へのご機嫌伺いが大変らしい。

 SMAP、もしジャニーズ事務所ににらまれたら、テレビなどに出演できなくなる?だからかな?元の鞘に戻るようだ。

 http://lite-ra.com/2016/01/post-1901.html

 政治の世界も、芸能界も、一強。北朝鮮をめざしているみたい。権力者の理想は、金正恩かな?そして、そういう権力者に、多くの人々は尾を振るのだ。

追加  昨日、フジテレビ系列で彼らの生出演があったそうだ。その情景は、異様なものだったそうだ。その真相を、リテラが記している。

http://lite-ra.com/2016/01/post-1902.html

 これでキムタクも、ジャニーズ事務所で、近藤真彦の地位に近づくだろう。
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