浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

痛み

2023-10-03 21:14:48 | 

 昨日、植木屋さんのように、生垣を整えた。生垣を刈る仕事は、子どものころからやっている。実家は槙、今住んでいるところはさざんかである。いつもは11月に入ってから始めるのだが、今年は早くした。ひょっとしたら、新しい芽がでてくるかもしれない。

 今朝、少し残してあったところを刈っていた時、腰を痛めた。今も痛い。でも今日夕方、畑に行った。畑で作業をしているときには、痛みは感じなかったのだが、帰宅してから痛みがでてきた。

 朝から腰の痛みを感じていたので、ごろんと横になって『ハングルへの旅』(茨木のり子、朝日文庫)を読んだ。おそらく再読である。奥付きには1989年とある。この本はとても良い本だったという記憶がある。

 ぼくは、何度も韓国に行っている。朝鮮人女子勤労挺身隊の戦後補償裁判に関わったからだ。自治体史で在日コリアンの歴史を担当することになった関係で、いろいろ調査する過程で、あまり知られていなかった幼い少女が戦時中朝鮮から日本に動員され、繊維工場などで働かされ、給与が未払いであったことなどを知った。そしてその女性たちがみずからの給与を取り戻したいと主張された。帰国して、知り合いの弁護士に話したら、裁判をやるということになった。その女性たちは、戦時下の教育を受けているので日本語を流ちょうに話す。

 だから、ぼくは韓国語を学ぶことはなかった。とはいえ、いつも日本語で対応してくれた韓国の人びとに申し訳ないという気持ちをもっていた。いつかハングルを学ぼうと。ハングルを学ぶための書籍は5冊くらいは持っている。

 農作業以外の仕事は、今年ですべて終わりにするつもりなので、空いた時間でハングル学習に取り組もうとひそかに思っている。

 そのために、『ハングルへの旅』を読んだ。読みながら、やはり痛みを感じた。その痛みは、朝鮮半島を植民地支配した日本国家の一員としての精神的な痛みである。

 その本の最後に、戦時下、独立運動の嫌疑により捕らわれ、福岡刑務所で虐殺された尹東柱のことが記されている。尹東柱は、澄み切った詩を書いていた。その詩は、今も語り継がれている。いくつかの詩が掲載されているが、もっとも有名な「序詩」以外では、「たやすく書かれた詩」のなかのことば、「人生は生きがたいものなのに」に、以前読んだときに引いた線がくっきりと記されている。また「弟の印象画」のなかの「「大きくなったらなんになる」/「人になるの」」という弟との会話にも、線が引かれている。

 尹東柱の詩を読んでいると、その背後に過酷な植民地支配を感じる。それが哀しみとなって静かに語りかける。

 この本は、よい本だ。尹東柱の前は、浅川巧についての文である。朝鮮の宗主国である大日本帝国の一員である浅川が、いっさいの差別的意識を持たずに、朝鮮の陶器など朝鮮人の生活のなかから生れ出た芸術にもなりうる文化を曇りのない目で見つめた。そして死して朝鮮の土になった。

 なぜに人は、抜け駆けをし、「俺が、俺が」とでしゃばり、カネ儲けに励み、自分自身を売り込み、みずからの名を売ろうとするのだろうか。

 「大きくなったらなんになる」という問い。少数の歴史に名をのこした人々をのぞき、ひとはただの人間になり、そして人知れずこの世を去っていくのだ。

 

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同感だ

2023-10-02 19:58:33 | 政治

 日本社会党から社会民主党へ、そして社会民主党から多くの人びとが立憲民主党へと移っていった。それも主要なる責任ある人たちが、である。

党首でありながら社民党を捨てて立憲民主党に参加した又市征治

 私もまじかでその姿を見た。

 静岡県の社会民主党が、県内の社会運動の歴史をまとめたいというので、ほぼ無償でそれに参画した。それが出来上がったら、主たる人々は、さっさと立憲民主党へと移っていった。

 私は人間不信に陥った。社会民主党、党首の福島みずほさんは頑張っているが、現在に至る過程で、多くの醜態を見せてきた。もう関わりたくないという気持ちである。

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秋の風

2023-10-01 21:44:29 | 日記

 今夏はものすごく暑く、例年は猛暑でも毎日畑に出ていたが、今年は行ってもせいぜい20分くらいしかいられなかった。だから畑の多くが夏草に覆われてしまった。サツマイモや小豆、なす、ピーマンなどは畑の入り口にあったので、何とか収穫し続けたが、かぼちゃや西瓜は奥のほうに植えたので夏草に覆われ、収穫すらできなかった。

 今は、秋冬野菜の苗を植えたり、種を蒔いたりする時期である。夏草に覆われていたので、草を根から取り去り、そこを耕して畝をつくらなければならない。さらにサツマイモも収穫の時期を迎えている。農作業に追われる超忙しい日々を送っている。

 それに日が落ちるのが早くなり、遅くまではできない。夕焼けとなる時刻に畑を去る。

 帰宅するには西に向かって自転車をこがなければならない。そして右折して、左に夕焼けを見ることが出来る。

 毎年、夕焼けをみるが、その美しさに、この世に生まれてきてよかった、と思う。

 夕焼けのことは何度か書いてきたが、それを書くと、友人のUさんからよく連絡があった。Uさんの年賀状も、自分が撮影した夕焼けを印刷したものが多かった。

 でもUさんは亡くなってしまった。そのことを知ったぼくは、彼の家に向かい、奥さんと一緒に涙を流した。もう3年ほど前のことだ。

 いろいろ教えてくれた人、仲よくしていた友人、いずれも私より年令は上なのだが、みんな死んでしまった。ぼくが書いたものを読んで批評してくれたH先生も亡くなり、殆ど毎日電話で話していたTさんも・・・・・・

 秋になると、そういう人びとを思い出し、寂しくなってしまう。彼らはいずれも謙虚で、それぞれ一流の人なのに謙虚で、ぼくのような者にも誠実に接してくれた。

 今ぼくは、今までやっていたいろいろなことを整理しようとしている。親しくしていた人びとのあとには、自慢話が好きな人、しゃしゃり出てくる図々しい人、自分自身を売り込む人、そういう人と接することがある。とくに「運動圏」にいる人にそういう人が多い。

 ぼくは、だからそういう場から逃れる。

 歳をとると、その最大の敵はストレスだという。ストレスは、他人とのつきあいの中で生じる。だからそういう人びとがいるところには行かないようにしたい。

 畑では、対話するのは土であり、虫であり、鳥であり、風であり、陽の光であり、そして今日、急に降られた雨である。そして作業している間は、無心である。

 こういうことを書くと連絡してきたUさんは、いない。親しくしていた歴史研究者は、みな亡くなってしまった。

 だから、ぼくも歴史研究からは、手を引くのだ。それは同時に、オレがオレがという人たちから距離をとるということでもある。

 

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パブリックメモリー

2023-10-01 19:51:30 | 近現代史

 以前、岩波書店の『思想』を定期購読していた。最近、恐らく読まないだろうと思うBNは大胆に捨てた。

 残されたなかの一冊は、「パブリックメモリー」の特集、1998年8月号である。

 巻頭は、T・フジタニの「パブリックメモリーをめぐる闘争」である。それを紹介しながら、少しコメントを加えたい。

 パブリックメモリーは「公共の記憶」と訳される。

 「公共の記憶」という場合、官製の、国家権力の関与のもとに確定されたものという認識がある。フジタニは、こう記している。

 「公的な記憶は、交渉や闘争、排除やあからさまな暴力行使といった過程を通じて生産されるのである。国民、人種、階級、ジェンダー、性、その他さまざまな差異の指標が共謀して、公的な記憶に足るだけのもっともらしさと価値をもったものを形成する。」

 そしてこう記す。

「過去は、 決して、もともとの、すなわち政治化する以前の形では、復元されないということであり、また、さまざまな記憶というものは、個人的なものでもあれ、公共のものであれ、つねにすでに、さまざまな政治的な力と物質的な痕跡によって、 媒介されているということなのである。こうした事柄を自覚することによって、記憶の仕事に従事するものは、いままで記憶の産出に関与し、公共圏を支配してきた利害関係の正体を明らかにすることができる。」

 つまり記憶というのは、すでに政治の力によってなんらかの変形を被っているのだ。歴史を研究する者は、記憶の産出に関与する者である。であるが故に、常に記憶を問い続けなければならないし、また新たな記憶を産出しつづけなければならないし、記憶すべきものを記憶として提示しなければならない。

 フジタニは、こうも言う。

「記憶の作業者はまた、抑圧され周縁化された過去の回復にも取り組まねばならない。」

 記憶は、今も闘争の焦点となっている。国家権力は、不都合な記憶を記憶にとどめないように、さまざまな手段で攻撃を加えている。

 消されてはいけない記憶を、消されないように、日常的に産出し続けなければならない。それが歴史研究者の使命でもある。

 「公共の記憶」とは、国家権力によって公認されるものではなく、人びとによってつくり出されるものでなければならない。

 

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