都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「マルレーネ・デュマス - ブロークン・ホワイト - 」 東京都現代美術館
東京都現代美術館(江東区三好4-1-1)
「マルレーネ・デュマス - ブロークン・ホワイト - 」
4/14-7/1
南アフリカ生まれ(現在、アムステルダム在住。)のアーティスト、マルレーネ・デュマス(1953~)の大規模な回顧展です。先に観たギャラリー小柳の個展はあまり感じるものがなかったのですが、大作のポートレートを中心としたこの展覧会は想像以上に見応えがありました。MOTの広々した展示空間を上手く利用しています。見せ方にも長けているようです。
チラシの表紙を飾る「邪悪は凡庸である」(1984)からして、どこか心の奥底からふつふつとわきあがるような『力』を感じる作品です。一般的にデュマスの作品は不気味で、また半ば病んだ心持ちもイメージさせるようですが、もしかしたらそれは彼女の内面があまりにもストレートに表現されているため、見る側が奇妙に構えてしまう、もしくは怖じ気づいてしまうような面があるのかもしれません。燃えるようなオレンジ色の髪を振り乱す女性は、さながら睨むような目線で後方を見据えています。そこに、彼女の剥き出しになった、言わばおさえられずに滲み出す激しい感情を思うのはどうでしょうか。またその内面へと立ち入るには、もはやこの強い視線を遮るようにして絵と対峙する他なさそうです。流し目で過ぎ去ることを許してはくれません。
アラーキーの写真作品よりインスピレーションを感じて描いたという、「ブロークン・ホワイト」(2006)も非常に強い印象を与えます。荒木の作品に見た艶やかなエロスは消え、名もないような一人の女性の乱れた姿だけが描かれていました。血がこびり付いたように染まる赤を背景にした横顔は、もはや生気の失われた死人のように個を失っています。ちなみにデュマスにおける死のイメージは、月岡芳年のグロテスクな「奥州安達がはらひとつ家の図」にインスパイアされた「仮想1」(2002)に顕著です。首つりの少女からは、ダラリと吊り下がる肉体の重みだけがただ淡々と伝わってきます。全く包み隠されない死の恐怖だけが、まさに目を背けたくなるほど生々しく表現されているのです。
いくつかのポートレートに見る、色彩も溶けた、どこか微睡んだような朧げな面持ちは、実は内面の強烈な感情が掻き乱した人物の幻影に過ぎないのかもしれません。そしてそのベールを取り払った時に見えるのは、絵よりドロドロと流れ出す苦しみや悲しみでした。また、常に死と隣り合わせである生の脆さも感じます。無数のポートレートで埋め尽くされた「女」(1992-93)が、もう何十年も前に死を迎えた人物ばかりに見えるのが不思議でなりませんでした。
この毒々しさは好悪が分かれるかもしれません。7月1日までの開催です。(5/20)
*関連リンク
ギャラリー小柳(デュマス個展~6/16)
「マルレーネ・デュマス - ブロークン・ホワイト - 」
4/14-7/1
南アフリカ生まれ(現在、アムステルダム在住。)のアーティスト、マルレーネ・デュマス(1953~)の大規模な回顧展です。先に観たギャラリー小柳の個展はあまり感じるものがなかったのですが、大作のポートレートを中心としたこの展覧会は想像以上に見応えがありました。MOTの広々した展示空間を上手く利用しています。見せ方にも長けているようです。
チラシの表紙を飾る「邪悪は凡庸である」(1984)からして、どこか心の奥底からふつふつとわきあがるような『力』を感じる作品です。一般的にデュマスの作品は不気味で、また半ば病んだ心持ちもイメージさせるようですが、もしかしたらそれは彼女の内面があまりにもストレートに表現されているため、見る側が奇妙に構えてしまう、もしくは怖じ気づいてしまうような面があるのかもしれません。燃えるようなオレンジ色の髪を振り乱す女性は、さながら睨むような目線で後方を見据えています。そこに、彼女の剥き出しになった、言わばおさえられずに滲み出す激しい感情を思うのはどうでしょうか。またその内面へと立ち入るには、もはやこの強い視線を遮るようにして絵と対峙する他なさそうです。流し目で過ぎ去ることを許してはくれません。
アラーキーの写真作品よりインスピレーションを感じて描いたという、「ブロークン・ホワイト」(2006)も非常に強い印象を与えます。荒木の作品に見た艶やかなエロスは消え、名もないような一人の女性の乱れた姿だけが描かれていました。血がこびり付いたように染まる赤を背景にした横顔は、もはや生気の失われた死人のように個を失っています。ちなみにデュマスにおける死のイメージは、月岡芳年のグロテスクな「奥州安達がはらひとつ家の図」にインスパイアされた「仮想1」(2002)に顕著です。首つりの少女からは、ダラリと吊り下がる肉体の重みだけがただ淡々と伝わってきます。全く包み隠されない死の恐怖だけが、まさに目を背けたくなるほど生々しく表現されているのです。
いくつかのポートレートに見る、色彩も溶けた、どこか微睡んだような朧げな面持ちは、実は内面の強烈な感情が掻き乱した人物の幻影に過ぎないのかもしれません。そしてそのベールを取り払った時に見えるのは、絵よりドロドロと流れ出す苦しみや悲しみでした。また、常に死と隣り合わせである生の脆さも感じます。無数のポートレートで埋め尽くされた「女」(1992-93)が、もう何十年も前に死を迎えた人物ばかりに見えるのが不思議でなりませんでした。
この毒々しさは好悪が分かれるかもしれません。7月1日までの開催です。(5/20)
*関連リンク
ギャラリー小柳(デュマス個展~6/16)
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