周南市長穂地区にある龍文寺は洞雲寺の本寺で、洞雲寺を開いた金岡用兼はここ龍文寺4世大庵須益に師事し、後に5世為宗仲心に師事して永平寺の復興などに尽力している。金岡用兼は師である龍文寺5世の為宗仲心を洞雲寺の勧請開山とし自らは中興2世となっている。龍文寺の本堂裏にある金岡水で洞雲寺開山の金岡用兼が仏祖に供える湯茶水のために岩を砕いて造ったと言う金岡水である。下画像は明治29年(1896)の龍文寺全図で赤丸部分に金岡水がみられる。
周南市長穂地区にある龍文寺は洞雲寺の本寺で、洞雲寺を開いた金岡用兼はここ龍文寺4世大庵須益に師事し、後に5世為宗仲心に師事して永平寺の復興などに尽力している。金岡用兼は師である龍文寺5世の為宗仲心を洞雲寺の勧請開山とし自らは中興2世となっている。龍文寺の本堂裏にある金岡水で洞雲寺開山の金岡用兼が仏祖に供える湯茶水のために岩を砕いて造ったと言う金岡水である。下画像は明治29年(1896)の龍文寺全図で赤丸部分に金岡水がみられる。
かつて講中は各家を順次廻って僧侶を招き法話をきいて食事を共にした「お講寄」と葬式の時には世話一切をするなど援助しあう協同の組織であったが、時代の流れで講中組織があまり必要とされないようになって次々と講中が解散されており、当ブログ主が属していた大原講も昨年秋に解散した。大原講には明治期に婦人講もあったようである。上平良地区には河野原、大原、二重原、吉野、則貞、森上、森下、谷峰、折手講と他に二講(名称が曖昧)あったが現在は吉野、森下講のみとなっている。
正平21年(1366)に博多講衆16名が厳島神社に奉納した釣燈籠の複製品が展示してあった。瀬戸内海を行き来していた博多商人達が航海の安全を祈念して奉納したものであろう。厳島神社にある釣燈籠のうちで最古の紀年銘が刻されているもののようであり県の重文に指定されている。(厳島神社釣燈籠画像-広島県文化財解説図録より)
小浜厳島神社
上村厳島神社
当ブログ主は訪れた地に祀られている厳島神社を訪れるようにしている。JR温泉津温泉駅がある小浜の町並みに厳島神社が祀られている。どのような経緯でこの地に祀られたのかは定かでないが、一書によると毛利元就が石見銀山を領有したころに安芸厳島神社を勧請して祀られたのであろうかとある。福光川沿いの上村地区に祀られている厳島神社もどのような経緯でこの地に祀られたのかは定かでない。
開山金岡用兼・2世天翁玄播墓碑
3世三庭龍達・4世大雲守的・5世基外嶺雄墓碑
昨日、廿日市洞雲寺との関わりのある下関市長府の巧山寺を参詣した。廿日市桜尾城を領していた毛利秀元は関ヶ原の合戦後に長府に移封され、荒廃していた長福寺を修営して洞雲寺12世三庭龍達を招いて功山寺の住持とした。三庭龍達は洞雲寺の開山金岡用兼を勧請開山とし、師の13世天翁玄播を中興2世とし自ら3世とした。毛利氏の大きな後ろ盾を失った洞雲寺の住持である13世大雲守的、17世基外嶺雄も長府に移って多くの寺院を開いているのである。 (詳しくは廿日市の文化第20集-洞雲寺特集参照)
昨日紹介した生見の鉄燈籠基礎部分に鋳出されている向き合った獅子と似ている鉄燈籠が岩国市錦町宇佐八幡神社にある。この鉄燈籠は当神社本殿脇の覆屋の中にあり、笠、火袋、中台、基礎部分が残され錆で表面はボロボロになっている。この鉄燈籠の銘文が江戸期の寺社由来に「・・・永享九丁巳年八月吉、山代庄宇佐村長兼 大工藤原朝臣安信」と記されており、この鉄燈籠を鋳造した藤原朝臣安信は廿日市の鋳物師とみられるのである。
詳しくは安芸国鋳物師の鋳造活動又は山口県地方史研究第65号所収の「宇佐の鉄燈籠鋳工についての一考察」に詳述しているので興味のある方は参照してください。
下関市上新地町にある厳島神社で当神社のHPによると安芸国厳島神社の御分霊を平家の守護神として、安徳天皇の御座船に祀っていたが、壇ノ浦の合戦後磯辺に放棄されていたのを里人たちが神託を得て社殿を建立し、安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請したということである。
参道に建立されている一の鳥居の笠木・島木部分の越境部分にはマンションのベランダ手摺に粋な計らいが・・・
岩国市美和町阿賀にある速田神社で、江戸中期頃の防長寺社由来によると速田神社は筑前国宗像郡より宗像大明神を勧請したとある。しかし、中世の山代地方は厳島社との関りが深かったことが資料などから窺われ当神社の祭礼には六月十七夜がある。また、山代地方に速田社が9社もみられるので、厳島社の影響下にあった平良庄の速田神社(現速谷神社)が勧請されたものとみても間違いなかろう。
松竹写真部調製
夢まぼろし女剣劇-森秀男著 筑摩書房
当市上平良地区の出身である不二洋子を知る人は戦前から平良周辺に居住の後期高齢者の人達しか知っている人は少ないであろう。戦前・戦後を通じて一世を風靡した女剣劇の女王不二洋子(本名迫静子)は、生れは香川県坂出町(現坂出市)で大正5年(1916)に平良村の興行師迫日出雄(本名出雄)の養女となり、女剣劇の道を歩み出して行くのである。昭和9年(1934)に不二洋子一座が旗揚げし、女剣劇の草わけの第一歩を踏み出し、浅草大衆演劇の一つである女剣劇の黄金期を迎えるのである。
当ブログ主は訪れた地に祀られている厳島神社を参詣することにしており、隠岐空港近くの小さな漁村岸浜地区に祀られている厳島神社を参詣した。どのような経緯で安芸国厳島神社が勧請され祀られているのかは定かでない。この神社の本殿も隠岐造りのようである。
下榎厳島神社
丸山厳島神社
今回訪れた日野路にある厳島神社二社を参詣したが、なぜ中国山地に厳島神社があるのだろうか。日野町下榎にある厳島神社は鳥取県神社誌に「社伝に宝永年中同村安左衛門と云ふ者安芸国嚴島神社より勧請せしと・・・」とあり、日南町丸山にある厳島神社は同神社誌に「伯耆志に曰く夏日山の城主夏日重郎左衛門永豊といふ人安藝の産にて厳島明神を勧請す・・・」とあった。
先日の見島行きに萩市に早く着いたので市内川島にある桂太郎旧宅を訪れ写真を撮っただけで萩商港に向かった。桂太郎は明治維新後に総理大臣を三回務めており廿日市の桂公園に関わりがあった人である。桂太郎は先祖の桂元澄が居城していた桜尾城跡を買収してかつての廿日市町に寄贈したのである。
条件として寄贈の山林は桂公園と命名して、永久に維持することと開園記念碑を建設することになっていたが、桜尾城跡は削平されて遺構は無くなっている。
安芸太田町田吹地区にある速谷神社で江戸期の地誌には速田神社とあり、近代になって速谷神社と改称されたようである。以前訪れた時には社殿が老朽化していたが近年改修整備されたようである。昨日紹介した大元神社とおなじように速田神社は西中国山地一帯に20数社みられ、安芸速田神社(現速谷神社)を勧請したものとみられるが、どのように信仰されていたのかは定かではない。