以前にも紹介したが市域では最高の傑作のひとつである雲文に飛び鶴の蔵飾りのある土蔵を訪ねてみた。母屋は一部崩壊が始まっており土蔵は画像のような状態であった。蔦かずらがなかったら下画像のような雲文に飛び鶴の漆喰細工であるが次第に崩壊にむかっていくのであろうか。
以前にも紹介したが市域では最高の傑作のひとつである雲文に飛び鶴の蔵飾りのある土蔵を訪ねてみた。母屋は一部崩壊が始まっており土蔵は画像のような状態であった。蔦かずらがなかったら下画像のような雲文に飛び鶴の漆喰細工であるが次第に崩壊にむかっていくのであろうか。
吉和地区の吉和郵便局隣接地で吉和支所複合施設整備の用地造成工事が行われていることを以前紹介したが、現在躯体工事が行われているようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所・吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約するための施設のようである。
中津谷にある専立寺は江戸期の地誌によると妙福寺という禅寺であったようで、永禄3年(1560)に真宗に改宗し寺号を専立寺と改めたようである。石州益田の城主越中守が石州往還を通行の際には専立寺に宿泊していたとのことであり、石州には五ケ寺の末寺があったようである。
中津谷地区にある吉和小学校上分教場跡で昭和39年(1964)に廃止となったようである。現在跡地には廿日市市消防団第10分団第2班車庫・消防格納庫、第二集会所、コミュニティよしわ吉和げんき村、吉和村漁業協同組合などの施設が建てられている。
教龍寺本堂裏手にある墓地の一角には明治期に衰退して廃寺となっていた妙音寺の墓碑が中国自動車道吉和インターの設置でこの墓地に移設された。この墓碑群の中には西中国山地で挽造活動していた木地屋関連の墓碑とみられるもの八基がみられるのである。 廿日市の文化第24集所収「西中国山地の木地屋-木地屋の足跡探訪を中心にして-」参照
石原地区の長い石段を登った所にある教龍寺で、古い時代は西福寺という禅寺であったようで、その後真宗に改宗して寺号を教立寺と改めた。教立寺を明治初年に現在の教龍寺と改称したようである。
吉和支所・吉和市民センター
吉和保険センター
吉和歴史資料館
吉和地区の吉和郵便局隣接地では老朽化し分散している市吉和支所・吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約するための吉和支所複合施設整備の用地造成工事が行われていた。令和4年度末頃に整備完了のようである。
吉和地区にある民家の土蔵の蔵飾りで、かつて上画像のような市域では最高傑作とみられるような漆喰細工の蔵飾りであったが現在は下画像のような状態である。すでに母屋は崩れかけておりこの土蔵も先行きが危惧されるのである。
市域にある茅葺き屋根の民家は市重要文化財に指定されている浅原地区の安井家母屋と吉和地区のM家のみであるが、M家の屋根の痛みが相当進んでいるようである。上画像は昨年8月に撮影。昨日も触れたが今時期茅の確保も難しく茅葺き職人も地域にはおられないだろうから茅葺き屋根を維持していくのは難しいのであろう。
吉和地区にある民家で昨年8月に訪れた時には茅葺屋根であったが、先日訪れてみると薄鉄板葺きの屋根となっていた。今時期茅の確保も難しく茅葺き職人も地域にはおられないだろうから茅葺き屋根を維持していくのは難しいのであろう。
一昨日吉和地区を訪れたら稲刈りが行われて稲掛けのハゼの準備をされていた。近づくことが出来ない場所であったので画像から見ていくと親から習ったような組み方でなくハゼ杭は二股と縦杭の交互になっており太めのハゼ杭である。ハゼ杭の先端が尖ったものがみられるが槌で田面に打ち付けないのであろうか。長手方向に抗する対策もあるのだろうが・・・
旧吉和村で刊行された吉和村誌で第一集は昭和61年(1986)12月1日に発行、第二週は昭和60年(1985)7月1日に発行されている。第一編自然と有形文化では気候、生物、民家、民具、地名など記述され、第二編では文書資料などが掲載されている。第二集の第三編生活伝承-衣食住、生産と労働、通運・交易、社会生活、通過儀礼、年中行事、口承文芸・芸能、宗教・信仰などにわたり記述されており、民俗学色の濃い村誌である。
立岩ダムの水位が下げられて上流部の河川から流出した砂が大量に堆積しているのがみられ、看板表示によるとこれからこれらの土砂が搬出されるようである。湖面では見たことが無いような機器が載せられた台船が移動させられていた。水中に堆積した土砂を排出する浚渫船なのだろうか。
冠高原は江戸期には波牟佐宇原、萬象ケ原などといわれる湿草原だったようである。地域の方の話によると山県郡の人が入植して木鍬で開拓したそうで高原の中ほどに供養塔が建てられている。この供養塔には法名など刻してあるが開拓先駆者は山県郡に葬られているようである。戦後の昭和21年(1946)に広島県の開拓政策により西山開拓団が入植して昭和30年代にはスキー場が設けられ冠高原と称されるようになったようである。