戦国時代桜尾城の友田興藤を攻撃するために山口の大内義隆は七尾に陣を張っており、厳島に社参して七尾の陣に帰っている。また七尾より外宮に参詣しており、後に義隆は藤懸、七尾より佐東銀山城に移っている。これらから中世の七尾は藤懸城(藤掛尾城)から越峠尾城一帯であったものと思われる。(赤丸内)戦国時代の七尾位置が忘れられ江戸期に七ツの尾が付いた城や七ツの尾根などと作り変えられたようである。
戦国時代桜尾城の友田興藤を攻撃するために山口の大内義隆は七尾に陣を張っており、厳島に社参して七尾の陣に帰っている。また七尾より外宮に参詣しており、後に義隆は藤懸、七尾より佐東銀山城に移っている。これらから中世の七尾は藤懸城(藤掛尾城)から越峠尾城一帯であったものと思われる。(赤丸内)戦国時代の七尾位置が忘れられ江戸期に七ツの尾が付いた城や七ツの尾根などと作り変えられたようである。
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