かぶれの世界(新)

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ゼロ金利時代の個人資産、リスクに向かう

2006-07-28 23:06:33 | 社会・経済

母が持っている定期預金を投資するように説得し、投資信託を買うことにした。調べると母がペイオフ対応で預けた定期預金は6年間で0.4%の金利も生み出してなかった。日本人のリスクを嫌う貯蓄性向そのままである。

2000年に始まったゼロ金利の間に個人資産は約80兆円増えて1500兆円になったが、増加分の殆どは昨年の株価上昇が貢献しており現在はやや目減りしていると報じられている。しかし、6年も続いたゼロ金利に嫌気が差したのかその内訳を見るとリスクマネーの比率が徐々に高まっているらしい。

住友信託銀行の調査月報8月号によると個人資産は低金利の為うまみが薄れた定期預金残高が28兆円減少し、流動性預金残高が42兆円増え流動性重視の資産選択に移行している。一方で投資信託残高がこの6年間に23兆円増加し徐々にではあるが日本人のリスク許容度が高まってきている。

変動金利を特徴とする個人向け国債はまだ歴史が短く(3年)残高は少ないが倍々ゲームで急増しているらしい。リスクマネーの原資は定期預金・郵貯などであるがマクロで見ると日本人の安全性・流動性思考はまだまだ緩やかに変化しているというのが同調査月報の結論だった。

母が預けていた田舎の銀行(いわゆる地銀)の窓口で金融商品の紹介を受け、定期預金から切り替えた効果が分かりやすい毎月配当が出る(うまく行けば)投資信託を選び購入することにした。手数料は銘柄により都銀や外銀と同じか安かった。

紹介頂いた銘柄の4月発行の目論見書とインターネットで調べた現在値と比べると総資産額が急増しており、インターネットの基準価格は毎日上昇していた。もちろん人気銘柄を見たのだから当然なのだが、上記の調査月報より個人資産から投資信託への移行速度は早いというのが、担当の行員の方の実感でもあるようだ。

何故日本人のリスクを嫌う安全性志向が変わり始めたのだろうか。長く続いた低金利時代の間はなんといっても収益性より安全性優先だった。母の様子を見ていると今でも全く変わっていない。今回も内心はそのままそっとしておきたかったようだ。

しかし、郵政民営化の議論の中で郵貯から約20兆円が流出し定期預金の解約が続くのは、本格的な景気回復により雇用が増え将来に対する明るさが見えてきたのが家計の心理的なリスク許容度を高めたと個人的に感じる。

ところで銀行が金融商品を売り始めたのはつい最近で、今回まで余り信用していなかった。説明を聞いてみると全日空が初めて国際線に進出した頃米国出張の為乗った同社の客室乗務員の初々しいサービス振りを思い出した。知識は不十分だが一生懸命さは伝わった。

この銀行は取引は電話もインターネットもダメ、必ず窓口に行かなければならない。地銀は地元の顧客にサービスするというのが基本的な考えらしい。もう一つの地銀はもっと徹底しており住所が地元じゃない顧客には金融商品は売らない方針だった。

母の管理しているお金なので安心してもらう為に地元の銀行を選択することにした。今後暴落しようと売り時だろうと窓口に行かないと流動化できない不便さが問題なのだが、女性行員の笑顔でそんなことも忘れさっさと契約を済ませた。■

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汚れたニューヒーロー

2006-07-28 00:37:53 | スポーツ

たった今速報が入った。

何とフロイト・ランディスがドラッグテストに引っかかったと所属チームPhonakから発表があったらしい。うっかり褒められないのは悲しい。勝てば巨額の金が入ってくるスポーツはどんなに厳しい制裁も役に立たないのか。富は得られず栄誉だけの為ドーピングするスポーツマンは聞いたことが無い。金が全てに優先するのはスポーツ、ホリエモン、役人、政治家まで世界で最もよく適用される共通ルールか。■

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06夏の田舎暮らし(3)

2006-07-28 00:09:10 | 日記・エッセイ・コラム

昨日梅雨明け宣言と同時に猛暑が戻ってきた。大洲市は盆地だけれども標高40-50mしかなくその中を肱川が蛇行しているので、単に気温が上昇するだけでなく湿度が非常に高い。大洲の夏の高温は全国区でニュースの常連である。しかし緑豊かで夜になると山の谷間から涼しい風が静かに流れほっとする。

しかし、ほんの1週間前の大雨は凄かった。昨年行った道後温泉が気に入ったらしかったので20日の母の誕生日にホテルを予約した。前日に続き大雨の為JRの海周り路線が運転中止、やむを得ず電話でキャンセルした。丁度豪雨で九州に大被害が出た時だ。当日の朝にもかかわらず事情が事情だけにキャンセル料は免除してくれた。

表を流れる肱川の支流の様子を見に行くと消防団員が一人監視していた。水位はそれほど上がってなく我が家の田畑はセーフだったが、川の向こう側にある低地は一部の道路が冠水しておりローカル・ニュースで映像が流れていた。既に排水ポンプが出動して動いているとドブさらいで馴染の団員が教えてくれた。

昼間暑くてたまらないので一番涼しい玄関の土間で大の字になって寝ていると、先日山の写真を見せてくれたSさんの父君が北海道旅行の土産を母に持ってきてくれ、一話していった。大洲市の交通事故の2/3は高齢者だそうだが、父君は88歳になるのにしゃきっとしていて車を運転してこられた。

お年寄りの昔の思い出話はいつも興味深い。昔は(多分戦前)肱川の水が綺麗で川藻が少なく川幅が広かった気がする、そこを大瀬(大江健三郎氏の生家がある山村)から切り出した材木で筏を組んで長浜港まで運んだそうだ。

当時道路は舗装してなく1t積みトラック6台分の材木を筏の先頭と後尾に人が乗り、自転車を乗せて行ったらしい。これが最も効率のいい運送法だったそうだ。午前中に長浜港に着き、午後上手い具合に風向きが変わると帆を張って戻って行ったらしい。

私が子供の時には見た記憶がないので多分戦前の話だろう。召集令状が来たとき長浜港から船で香川県の善通寺の連隊に行くのが最も早い交通手段だった時代のことだそうだ。

大雨のおかげで折角耕した畑の表土が又固まっていた。母もさすがに根を上げて近所の人に頼んで昨日農機具で耕してもらった。今日の夕方涼しくなったところで母と大豆の種を蒔いた。50cm間隔で10-15cmの深さの窪みを作りカラスよけの薬に浸して妙に紅い種を蒔いた。1列終わると約2m離して同じことを繰り返した。5時過ぎでもかなり暑かったが小一時間で何とか終った。■ 

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