マ |
ンション耐震度偽装、不二家の期限切れ食品の使用、愛知県橋梁工事談合と止め処もなく不祥事が続くいている。このところの摘発はまるで再現ビデオを見るかのごとく、同じパターンの不祥事が続く。以前の事件の企業名を変えるとそっくりそのままニュースとして使えそうだ。
何故同じ不祥事が続くのだろうか。底流に何があるのだろうか。その質問に答えようとする興味深い評論をネットで見つけた。大前研一氏は「教育が悪い」、田中辰巳氏は「社会の変化」と指摘している。どちらの指摘にも同感するが、私流の言い方に変えると日本人の「自己責任感のなさ」が助けた不祥事を「不正を見逃さない社会」が摘発し始めたのだと思う。
大前氏は教育が悪いため自分の考えを持たない人が増え、割の合わない節約をして会社存続の危機に陥れた、勝ち目のない(割の合わない)戦争をした戦前に戻ったようだという。田中氏は戦後復興を果たした体制下で多くの不祥事を生んだが、会社に対する忠誠心よりも不公平・不公正を許さない世の中に変わったため、不祥事が表面化し始めたと主張している。
世の中に不正を許さない意識が高まったと同時に、インターネットの匿名性が閉じられた組織内といえども秘密を保てず密告しやすくし、厳罰化した法改正があいまって談合の摘発が進んだ。急に不祥事が増えたというより、昔からあった不正がここに来て暴かれ始めたということだ。
具体的な数字は持ち合わせていないが、小泉政権後半から談合などの摘発が増え始め、安倍政権に移行する頃から更に検察の積極的な姿勢が目立ち、捜査の手は地方にまで広がっていると感じる。三権分立といえども検察は時の政権の意向を反映して取り締まりを強化した印象がある。現政権に対して表立っては何もいえないが水面下で別の理由で反発があるのはこの辺に原因がある。
ホリエモン裁判が始まった時インタビューを受けた元大物検事が検察は世論の影響を受けると明確に応えていた。彼の言葉が全てではないとしても、検察は大筋では世論に支持される仕事をすべきと考えているようだ。導入が予定されている裁判員制度も同じ線上にあるといえる。
私 |
は父が第2次世界大戦を運よく生き抜き復員後結婚して生まれた団塊の世代だ。後に仕事を通じて社会の事を考えるようになった時、大人は(私は精神的にまだ幼かった)何故戦争をしたのだろう、何をしていたのかとても不思議に感じ一時期昭和史に熱中した。
しかし、その後政治や社会の流れの只中にいて、リアルタイムで何が起こっており個人として何をすべきか判断することがとても難しい事に気がついた。目の前の仕事に必死で取り組み、日々の暮らしを守るだけで精一杯になった。私が不正の中に放り込まれたらどうしたか自信が無い。
高度成長時代に各地で起こった公害もロッキード事件も他人事だった。勤めていた会社の上層部でスキャンダルが起こっても肩をすくめて黙々と働いた。私は同族会社どころか国際的な大企業に勤め最新の経営スタイルを標榜していたが、一部に役員が会長を諌められない古い体質があると揶揄されていた。
大企業でもパロマや不二家の同族会社的性格がないとは言い切れない。それは不祥事を容赦なく報じるメディアといえども例外ではない。メディアのトップが実は古い体質を残した独裁者という例は枚挙に暇がなく、その体質が不祥事を発生させる温床になっている事など決して報じない。
私自身は商品の不具合のために顧客やその財産を傷つけた時どうすべきか判断を下す立場になったことがあった。幸いにも当時の現場の優先順位は明確だった。リスク管理体制が確立しており、顧客の安全が最優先でその中で最も経済的な判断を下せばよかった。
しかし、上層部になると守るべき物の優先順位が変わりそれが権力争いになることもあったと思う。それが経営の範囲に留まるか(株主責任は残る)、現場まで影響するかで大きな差が生じる。その意味では、現場まで降りて不祥事が起こった上記の会社はかなり重症といえる。
米 |
国に駐在した時、重要な場面でスタンドアップ(信じることの為に立ち上がって発言・行動)することの大切さを教わった。そういうことをしたという噂は何故か瞬く間に従業員に広がった。サクラメント本社での発言を翌日ワシントン州の工場の班長が知っているのに驚いたことがある。
米国で暮らすと、教育や映画などあらゆる場面でスタンドアップするヒーローが描かれ、子供の頃からそれを見て育つことに気が付いた。それは大人になっても続く。単に学校での教育だけではない。孤立してもエンロンの粉飾決算を指摘した会計責任者をタイム誌が「年の人」に指名し表紙を飾ったのは記憶に新しい。多分彼女は伝説になり教科書でロールモデルになるだろう。
彼女は不正に立ち向かった尊敬されるべきヒロインであり、先日もエンロン裁判の承認として出廷したとき大きく報じられた。大前氏の指摘した「教育が悪い」という指摘はこの辺にあるのだろう。一人でも敢然と立ち上がり不正を正すことが大事だと教育をしろと。しかし日本の社会はそういう人嫌う傾向がある、果たして梯子を外さず支えることが出来るだろうか。
それは長い間に染み付いた国民性ではあるが、小泉政権から安部政権にかけて世の中は不公平や不公正を許さない公正社会に向かっていると感じる。この公正社会を支えるため自分で考えスタンドアップ出来る勇気を育てることを教育改革のテーマとしたら素晴らしいと思う。■