NHK大河ドラマのお陰で高知県を訪問した観光客数が2割増えた、と昨日のローカルニュースが伝えていた。私の実家のある大洲市でも龍馬ブームに乗っかり、龍馬の脱藩ルートの途中にあり、後にいろは丸を貸与したのが大洲藩だったと、急造の展示館で観光客増を狙っていた。
5月の連休中に家内とその展示館を訪問した時、長崎竜馬の会とか函館龍馬の会とかの方が来たと説明員のオジサンが教えてくれた。こんなところまで来るとは何と物好きと言うか、テレビの影響の大きさ、竜馬ブームを実感することになった。
こうなったらいささか強引かもしれないが、我等が先祖も微かに龍馬つながりがある。上記ドラマでは山内家子飼いの武士である上士と、長宗我部の家臣だった下士の対立が何度か描かれている。竜馬は下士の家に生まれたが、既に時代は変わりその当時は裕福な暮しをしていたらしい。
遡ると戦国時代が終わり山内一豊が土佐に入国した時、それまで四国の支配者だった長宗我部氏は滅亡、その家臣にとって厳しい選択が待っていた。多くは虐殺され、残った旧臣は坂本家のように山内家に差別(下士扱い)されて仕えるか、それを嫌った者は他国に逃げた。我が家の先祖は伊予大洲に逃げ土着して百姓になったという記録が残っている。つまり、龍馬と我が家の祖先は同じ主君に仕えた時期があったという訳だ。たったそれだけのつながりだが。
今日の午後お寺の住職に挨拶に行き、今月中頃に帰京する旨報告した。母が老人ホームに入り、私も盆暮れなど行事の多い時期は不在だが宜しくとお願いした。一通り話が終った後、和尚から郷土の偉人「池田貫兵衛」の話を伺った。というのは、彼は歴史を辿るとこの地に逃れて来た我が家の祖先と同じくし、明治時代のある頃まで実家の隣に住んでいたからだ。
この偉人(成功者というのが正しいだろう)のお陰で、私の実家の先祖の記録が多少なりとも散逸せず残っているのではないかと思う。内容は分からないが曽祖父との通信も残っている。家系図によると私から19代遡ると長宗我部家臣で落ち武者の名前が出てくる。一族がこの地で先住民に遠慮しながら細々と生きていくのは大変だったのではないかと推測される。
お寺には、この落ち武者の直系は12代目で血が絶えたのを惜しんで、私の曽祖父の時代に墓標を建てたと記録が残っている。貫兵衛も私の実家も傍系だったということだ。和尚の話を聞くと、子供がいなくて傍系から養子を取り、家を存続させた例が結構頻繁に出てくるのには驚く。貫兵衛もそうだが、私の曽祖父も所謂入り婿入り嫁だったと母から聞いたことがある。
実家の直ぐ近くに続く田畑は低地で雨に弱く一級の稲作地とはいえなかったが、よそ者にはその土地しか残っていなかったのだろうという。和尚によると、この土着したよそ者がその後数代を経て庄屋になったのは、生き残る為に団結して頑張ったのではないかという。竜馬の先祖から分かれて250年後の幕末に、この地の大洲藩が龍馬とかかわった歴史を聞くと興味深い。■