かぶれの世界(新)

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私的・平成を振り返る(前)

2019-05-05 20:43:16 | 社会・経済
私のサラリーマン生活は紆余曲折あったが詰まる所「仕事人間」だった。子育てなど残り全て家内がやってくれた。高度成長時代に猛烈サラリーマンとして働き、平成最初の十年はその集大成(のはず)だった。現実は叩き上げの技術者として成功した私が、平成に入り事業運営責任を負い四苦八苦した。次元は異なるが平成の停滞に相通じるところがある様に感じる。

初体験が続出した平成時代
平成最後の日に朝からテレビを見ながら、自分がどう過したか思い出していた。平成の30年間に人生初めての経験が続いた。会社の幹部職になり海外勤務からITバブルを経て早期退職、母の介護と死去、その間にリーマンショック、昭和時代に予想しなかった出来事が続出した。

昭和復興は平成に残したツケではない
小説家真山氏の「平成は昭和の残したツケを払った」という解釈に私は賛否相半ばという立場だ。真山氏の見方はやや「被害者史観」のきらいがあると感じる。高度成長時代を生きた私にとって「戦後昭和」は「戦前昭和」(第2次世界大戦)のツケを「過払い」し、良くも悪くも今日の日本の基礎を築いたと評価している。一方、平成はリスクをとらず変化を嫌い停滞した時代だった。

平成元年の私は冷静だった
その位高度成長は凄かった、日本は正気を失ったと思う。昭和末期から平成の初めにかけて数年間は、日本中がバブルに湧き狂った時代だった。会社勤めの猛烈サラリーマンだった私は課長に昇進した頃で、世の中のバブル騒ぎを自分とは関係ないと軽蔑の見て猛烈に働いた。一方、都心から通う新入社員の家の地価を秘かに計算して驚き羨ましく思ったものだ。

半周遅れでバブルに嵌まった私
平成に入ってすぐ部長に昇進して事情は変わった。バブルは破裂したがバブルの余韻が歓楽街や企業に残っていた。部長というだけで取引先にちやほやされ、分不相応な接待漬けにあった。田舎者が銀座や赤坂から果ては海外(主に東南ア)で接待され、深夜東京郊外までタクシーで送られた。週末はゴルフ接待で自宅までハイヤーが送迎に来た。おかしいと思っても徐々に身体が慣れていった。

正気を取り戻してくれた海外ビジネス
救ってくれたのは2年後の人事異動で、海外向け製品の責任者になったことだ。生活は一変した。米国東海岸の時刻に合わせて深夜にTV会議し、毎月西海岸か東海岸に交互に出張した。もう接待どころではなくなった。文化の異なる人達と議論を戦わせ一致点を見つけ商品開発販売する、売れない場合は責任をとる。バリバリの技術者が異文化体験し海外での交渉術と高血圧が身に付いた。

青天のへきれきだった米国赴任
慣れない仕事を何とかこなしたのが良くなかった。2年後に今度は米国工場責任者として赴任することになった。技術屋じゃなくて全くど素人の工場運営だ。経験を積んだプロの工場管理者達にいい仕事をして貰い、現地会社や日本本社のトップの理解を得ることだった。いわばコミュニケーション術とでもいおうか。要領よく立ち回り夫々に仕事をして貰い結果を出す、それが身に付いた気がする。

帰国後のITバブルの対応を誤る
4年弱の海外オペレーションの経験を積んで帰国した時、私はリーダーシップを発揮して問題に対応出来なかった。経験を積んだ優秀な部下にやらせて結果を出すやり方では、ITバブル破裂時の事業危機に対応できなかった。リーダーとして状況判断し決定せず部下に任せて傷を大きくした。その挙句、担当事業を切り離して子会社に移行、多くの社員の生活を狂わせることになった。

仕事人間から第二の人生へ
丁度その頃、田舎で一人暮らしの母が自宅介護を受けるようになり放っておけなくなっていた。一通り事業のリストラクチャリングの目途がついたところで2003年春に会社を退職し、東京と田舎を行き来して母の最期を看取る第二の人生に入った。同時に相続遺産と退職金を元手にして投資活動を開始した。

このようにして私の激動の平成最初の10年を終えた。大雑把に要約すると、私は高度成長時代に目標が明確で必死で頑張って技術者として成功したが、平成になって経営幹部になり時代の変化に的確な判断が出来ず、サラリーマン生活を終え新しい人生を始めた。その後、リーマンショックで金融資産を半減させたが幸運にも投資家として生き残り第三の人生を始めた。それは次の機会に。■
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