かぶれの世界(新)

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西日本豪雨の傷跡

2021-05-04 18:14:31 | 日記・エッセイ・コラム
実家での田舎暮らしが落ち着いたところで山裾歩きを再開した。先ず足馴しに徳森地区を二分する232号線の両側の山裾を二日に分けて歩いた。そして先月30日に目的の恋木から富久保ルートを歩いた。グーグルマップ上は道がないが、両地区を個別に歩いた時に道標に気付いていた。

私の理解では、グーグルマップは舗装された自動車道のみ表示する。例えば、東京の高尾山のような人気のハイキングルートは点線で表示されているが、誰も歩かない田舎道は表示されてない。なので一体どんな道なのか今回の田舎暮らしで是非とも歩いてみたかった。

地図から推測するとかなりの距離、15-20kmの行程だった。帰郷前に長男とその孫達と一緒に歩いた奥多摩の大岳山-馬頭刈尾根と同じ程度の距離で、舗装してないが歩き易い車も通る道幅の一般道だろうと想像した。だが、最近足の衰えを実感していたので多少の不安があった。

当日は今まで何度か歩いた中学校から恋木地区まで長い急坂を歩いた。時折軽自動車やトラックとすれ違ったが、歩く人は一人も見かけなかった。恋木地区は集落というより山の斜面に分散して住居があり、南側に大洲盆地の東側と内子町が見える美しい風景があった。

昔なら山中の不便なところだったろうが、今では車を使えば簡単に行ける洒落た避暑地っぽい。意外に多い家々を見てそう思った。点在する家々の間の道を縫って登って行くと大ボリュームの演歌が聞こえて来た。出会った老婦人にお祭りかと聞くと、行商の車が地区の人に知らせる為だという。

そういう彼女は畑仕事には不似合いな化粧の濃い農婦(すみません、私の印象です)で、仕事を終え軽トラで帰宅するところだった。下から登ってきて「別府」まで歩く積りだというと、屑だと言って皮がしわになったポンカンをくれた。長い山歩きには役立つ、有り難く頂いた。

ここから先が本題だ。集落の最高地辺りまで登り、突き当りを標識に従って冨久保・鳴沢方面に向かって歩くと、数軒の廃屋らしき家があり舗装が切れた。やや広めで雑草のなかにはっきりした轍(わだち)が残っている道を選んで歩き続けたが、内心は道がいつ途切れるか不安だった。

その頃からスマホの歩数計が機能しなくなった。電波が届かずGPSも探知しなくなった為のようだ。そのうち軽トラックが見えてきてその横で作業中の古老の男性を見た。彼によると、この先は西日本豪雨以来道が崩壊し行き止まり、引き返して鳴沢に下りる用勧めてくれた。

やむを得ず元来た道を戻り、途中で南側に下りる小径を選んで下り始めた。だが、直ぐに道が消滅し右往左往した。頭を冷やして昔測量に使ったと思われる赤印の杭を辿ると、結局古老が教えてくれた草だらけの道に出た。最近誰も歩いた気配のない、しかし以前は車が通れた道幅があった。

上記の馬頭刈尾根みたいなトリッキーな岩道ではなく、延々と続く舗装されてない割と急な車幅の道路だ。突然、半分崩壊した道に出くわし用心しながら通り過ぎた。道の下に埋め込まれた直径0.3-1mの水道管が下流に流されていた。更に下っていくとそんな崩壊事故現場が十か所以上あった。

どこも道の前後に赤いコーンが設置されていた。西日本豪雨の凄さを改めて実感した。途中見た家々も廃屋なのだろう。幸運なことに全崩壊した道はなく何とか下山できた。舗装されていない道はどこも修理されてなかったが、纏まって民家が見えて来るとそこから先は舗装された道だった。

そこから先も長い森の中の長い道をただただ歩くだけだった。地図上のどこを歩いているのか見当がつかなかった。そのうち足の膝にガタがきて、上手く説明できないが時々跳ねるような歩きになった。
みっともない歩き方を見られるのが嫌だったが、平地に下りても時々そんな歩きになった。

どういう仕組みで変な歩きになったのかさっぱり分からない。だが、翌日になって奥多摩に行った時経験した筋肉痛は出なかった。二日目も三日目も出なかった。多分、膝周りの関節や筋に異常が起こったのではと思う。振り返って期待した割に余り楽しい思い出はない。■
コメント
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