八十路徒然なるままに

すざまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日のあまりの空こそ、心ぼそきものなれ。徒然草より

五年前の、避難

2016年03月15日 20時45分32秒 | Weblog
五年前の今日、三月十五日は、福島の妹のところに、避難をして世話になった。当時、福島では、電気が使えるようになったから、来るようにと。食料品はスーパーには、ほとんど無くなった。避難するには、介護中のばあちゃんの物が多い。車いす、ポータブルトイレ、介護用のマット、おむつ用品、着替えのもの、食べ物など、車に積んだ。仕事で使っていたハイエースバンの後部座席を、取り外して広くして、身の回りの物もつめこんだ。乗用車では、とうてい無理だった。あの時は、避難をしなくてはならないと、いち早く逃れることだけだった。原発の建屋が、爆発するのを、はるか遠いことだと、見ていた。まさかと思いながら、放射線への恐怖をかんじた。もう二度と、原発事故が、無いことを願っている。
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震災四日目

2016年03月14日 20時26分25秒 | Weblog
五年前の震災の十四日に、市役所からの情報。当時、隣組に配布したもの。当時、我が地区は、電気とガスと下水道は使えた。これだけでも、ありがたいことだつた。震災発生した時に、風呂に蓄えていた水もなくなり、古井戸から水を汲み、隣組の家に、下水に使う水を、あげていた。高台のいる知人にもと思い、水を届けるつもので走行した。しかし、知人は、原発の恐怖で、避難をしたと、その近くの知人から聞いた。「原発どうなっか、わかんねぅぞぅ」と。我が家は、原発から、40キロくらい離れているので、大丈夫だとしていた。テレビの画面を、他人事のように、見ていた。飲料の水は、昼間の混雑をさけて、夜の九時過ぎに、給水所に行った。街中は、車の数少ない。待たなくていいなぁだった。しかし、当時は、多くの人は、避難をしたり、屋内でも、テレビの画面を見つめていたようだ。
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カメラが届いた。

2016年03月14日 20時07分48秒 | Weblog
念願が叶って、カメラが届いた。初級機だろうなぁと、思っていたが、とんでもない。上級機のようだ。シャッターを押せば、いい写真が撮れる。その前に、多種多様の機能を、どう理解するかだなぁ。搭載されている機能をはずして、シャッター速度を設定したり、明るさを見定めたりして、撮影もできる。まずは、取扱い説明書を、熟読がん味。まあ、習うより慣れろで、楽しむことにする。
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自分への褒美

2016年03月13日 20時18分06秒 | Weblog
前掲の続き。今使っているデジカメは、押すボタンが、早く動いたり、動かなかったりしている。あれがいいかぁ、これにするかぁと、ネットで見ていた。本格的な一眼カメラにするはずだった。でも、この歳になると、「宝の持ち腐れ」になる。結局、画像のカメラにした。在宅のばあちゃんを、直接介護しているわけではないが、遠出はできない。介護が始まってからは、ゴルフもやめた。自分なりに、質素にしている。これで、不満足になれば、本格的なカメラに、買いかえてもいいのではと、自分に、言いきかせた。このカメラは、まぁ、自分への褒美にした。
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コンパクトカメラ

2016年03月12日 20時43分03秒 | Weblog
今使っているデジカメは、五年になる。バッテリーの充電時間が長くなった。まあ、劣化なのだろう。バッテリーを、ネット通販で買った。純正でなかった。なんのことはない、「安物買いの」の何とかだぁと。苦笑をしている。そろそろ寿命かなぁと思っている。いろいろと、物色していたが、画像の物にする。家電店ではなく、昔ぁーしからの、街の電気屋さんから、買うことにした。デジカメは、これで四台目になる。初代はの、記憶媒体は、スマートメデアなので、記録された画像を、読みだすことはできない。
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放射線

2016年03月12日 20時04分50秒 | Weblog
あれから五年。震災が発生した日は、原発事故は、さほど気にしてはいなかった。原発の安全神話があった。翌12日になって、原発のことが気になり出し、情報でもあるかと、市役所に行ってみた。その時は、何もなかった。夕方になり、テレビの画面は、大津波のことより、原発のことが、放映されたと思う。当時の12日の夕方、楢葉町の知人が、避難をしてきた。会って話を聞くと、その日の朝、町内に、全員避難するよう、指示があったと。その時、ヨウ素剤を持ってきたという。びっくりした。いわき市では、被ばくの予防措置として、ヨウ素剤を配布した。隣組には、ヨウ素剤を、服用しなくてはならない若い世代のは、居住していない。町内会の末端の班長として、市役所に、情報を取に行き、それをコピーして、25軒分を、ホッチキスで留めて、配布してあるいた。電気とガスは、普通に使えたので、ありがたかった。自主防災会の組織はあっても、まったく機能していなかった。画像は、五年前の、3月18日に、市役所からのお知らせのもの。
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複合災害から五年

2016年03月11日 20時55分07秒 | Weblog
今日、午後2時46分、防災サイレンが、ちょっと悲しげに、吹鳴。一分間に、あの日のことが、頭の中を、駆け巡った。カーラジオが、けたたました、「緊急地震発生」と。バイパスから、一般道に、脇道は、塀が倒れ、電線が切れて垂れ下がっていた。対向車にゆずり、ゆずられて、幹線道は、渋滞。帰着すると、すぐに、風呂に水を貯めた。2メーター四方の、ウインドウガラスは、割れて飛び散り、そのかたずけ。その跡を、合板で覆うのが、深夜になった。余震のたびに、近所への声かけながらの見回り。夕食は、お握りで、すませた。画像は、市役所からの、お知らせの中の一枚。大津波から、逃げ、避難した人数の表。コミニティは、ずうーっと前に、自主防災会に、市役所から配布された冊子の表紙。
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いわきは安全

2016年03月08日 20時31分47秒 | Weblog
画像は、原発事故で飛び散った放射線量を、八月31日に測定したもの。「あれから五年過ぎた」と、当時を振り返って、テレビの特番を見る。「いわきは、まだまだ怖い」とみるのもある。ラジオをながら聞きしていたら、いわき在住の漫談家は、「いわきは安全だょ」、「美味しいものが、いっぱいあるよぉ」とも、聞いた。放射線量を今は、わざわざ測定するほどでもない。当時は、正確な測定機をかりて、測定をして、その都度、隣組に配布をしていた。震災後一年すぎて、「いわき市の記録」が、市役所から届いた。最大放射線量は、3月15日に、23.72マイクロシーベルト/時と、読んだ。今は、別に気にしてはいない。
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八十路おりおりに

2016年03月08日 19時42分31秒 | Weblog
正月に、暇つぶしに、自分のブログを見た。写経会に行くようになって、三年が過ぎた。境内の画像を、春夏秋冬と並べてみると、ちょっとしたアルバムになるなぁと。でも、よく見ると、手振れの画像がある。まぁ、季節感があればいいかぁで、58ページの小冊子になった。拙いブログのほか、磐城古代記より、閼伽井嶽薬師のことと、いわきの伝説より、赤いいのししが、荒らしまわって住民が困っていた、赤井岳のことと、竜灯伝説がある閼伽井嶽薬師寺のことの、三篇を綴りこんだ。ありがた迷惑のひとつに、自分史が、贈られるのがある。まぁ、そのたぐいのものと、承知をしている。写経会にきている人に、笑読してもらうつもりで、30冊作った。いつもの、ひとりよがり。
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アメリカの選挙

2016年03月07日 19時47分05秒 | Weblog
ながら見していたテレビの画面。なんか、日本の民主党が、政権交代した時のようだ。後になってみると、絵に描いた餅のように思えた。いろいろと、混乱が生じたように、思える。選挙の仕組みが、日本と違うようので、いろいろな人が、立候補しているようだ。よその国のことだが、日本とは、密接な関係にあるのだろう。「有為転変」―ういてんぺん―。事典そのままから。「この世のすべての存在や現象は、さまざまな原因や条件によって、常に移り変わるものであり、少しの間もとどまっていないこと」とある。世の中、平穏がありがたいことなのだか、日々変化していて、世紀の変わり目は、大きな変化が、生じるのだろう。退化しいる脳は、解らないことだと、また、一言多い。
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供えられていた花

2016年03月07日 19時37分44秒 | Weblog
二月は、友人二人の、告別式に参列をした。かれこれ、10年前までは、顔を合わせていた。今年の年賀はがきには、元気でいると、添え書きがあった。64才の若さと、もうひとりは、84才と、同年代だ。いずれも聞くと、体調が、急変をしたという。この歳になると、寂しく考えさせられる。画像の花は、精進落としが終わり、帰る際、斎場で、手渡されて、持ち帰った。
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資金供給残高

2016年03月04日 20時41分27秒 | Weblog
画像は、新聞の記事。世の中に、出回っているお金は、38500000000円とある。そのうち、紙幣は、9514710000円とある。2パーセントの物価上昇を、目指しているからという。世の中に、出回っているというのだが、小生のどこだけかもしれないが、年金生活者には、寄りもしない。しからば、節約の一手を続ける。後の手は、かすみを食して、生き延びる方法がある。
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年々歳々花相似たり

2016年03月02日 19時42分34秒 | Weblog
今年も、咲き始めた。ばあちゃんが、元気だったころ、自分で、手入れをしていた。その頃、咲いたのを見た、記憶がない。それもそのはず、小生、別棟から、朝食にきて、すぐに仕事。昼は、ちょこつと来ただけ。仕事で遠出をするときは、お握り二つ持っていき、車中で食べた。街道のどこでも、食べられたのだか、その時間が惜しかった。夜は、用意が出来れば、食べて、すぐに残業。時代の変化もあり、大震災で、社屋を解体。その後、同居。ばあちゃんは、このころ、脳梗塞で、寝たきり。リハビリのつもりで、話しかけて、おしゃべりをさせて、聞いていた。今も気がむけは、よくおしゃべりをしている。表題は、「年々歳々花相みたり、歳々年々人同じからず」だ。人の世の移り変わりの激しくはかないこととある。花は咲いて、福島県の浜通りは、大地震、原発事故と、二重の災害から、五年になる。
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マイナス金利

2016年03月01日 20時16分10秒 | Weblog
画像は、一年前に載せたもの。今の世の中、「マイナス金利」と、報じられている。直接、一般庶民、以下の小生にはなんら影響はない。「預金封鎖」ということは、日本が、戦争に敗れた年の、一年後にあったという。小生、11才の頃の事なので、まったく分からない。親は大変だったろうなぁと、他人ごとように、思っている。農地が無くなつたのは、後々になつて、理解が出来た。貧困になったのは、農地が無くなる前に、お金が無くなったのだろう。親は、給料は、入っていたのだろうが、価値が無くなったのだろう。インフレになって、預金を引き出すことが、できなくなったのかも。現世は、デフレ脱却とかで、年率、2パーセントで、物の値段をあげょうとしているのかも。五年後は、今の10000円で買えるものが、11000円でしか、買えないのかも。なにかの方法を、考えだすしかないのだろう。表題とは、違った事を書いてしまった。
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