神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

人間と魂と永遠の命

2017年01月20日 08時45分09秒 | 宗教

この頃は何だかとても孤独感を感じています、どうしてなんだろうか?

何かをやろうと思うと、その感覚が尚更募ってくる

友達は結構いるんだけど、一歩踏み込んだところまで来ると「ひとりぼっち」だとわかる

子供でも親でも女房殿でも、この私の孤独感を癒やすことはできないでしょう

これは私の業であり、先祖からの記憶がそうさせているのではないかと思うのです

(血縁的なつながりが先祖の記憶を作り出すが、それは地球の存在する長さでしか無い、

魂自身のつながり=生まれ変わり(前世の連続)は地球ができる前から崩壊した後にも

動物の肉体を渡り歩く永遠の生命=形無き存在

*転生を繰り返す魂そのものには先祖も何も無いから、魂そのものの記憶は存在しない

 

DNAってきっとそういうものなのでしょう、自分の数十年の人生経験では無かった記憶が時々

表面に現れてきたり、夢の中に現れるのは生まれる前からDNAに仕込まれた記憶だと思うのです

DNAとは血脈の記憶のリレーです、人間が何であるかというヒントにはなると思います

何度も魂について人間について生死について考えてみましたが、やはり仏教、浄土真宗というのは

真理をついていると思いました、それは最近読んでいるイザベラバードが明治初期の京都本願寺の

トップと対談したときの話しで納得しましたし、私の想像もかなり良いところを見ているなあと納得する

ものでした。

 

我が一族の宗教は代々臨済宗でしたが父の複雑な環境の中で途切れてしまったのです、ゆえに

禅宗については何も知らない、けれどこれから勉強しようと思っています、そのとっかかりが、鎌倉時代

後嵯峨天皇の皇子である高峰顕日(仏国国師)であると信じていますので、そこからはじめたいと思うのです。

執権北条時頼が鎌倉五山をプロジュースし、その子の、北条時宗も八溝山雲巌寺の大檀那として後援している

その時に2度にわたる元寇が我が国を脅かした、その時代背景も興味深いところです。

 

やはり突き詰めるところ、永遠の安らぎ休眠(涅槃)が最高の浄土での状況で有り、そこに至らぬものは

あらためて魂の洗浄のために、まことの仏になるため再び現世で生まれ変わって修行をする

形はどうであれ、それを繰り返しているのでしょう、阿弥陀様とかは魂を管理する何かの宇宙の真理を

わからないから抽象化したものととらえればよい、人間にはそこまでのことは到底理解できないのだから。

ただ永遠の安らぎがあるかどうか、ゴールはあるかどうか、それはわかりません、むしろ無いと思うのです

永遠に魂は何億回も生まれ変わって永遠にそれは続くと考えた方が良いのでは無いかと思う、その生まれ変わり

のステージだって地球なんて小さな空間では無く、それこそ無限の空間に広がっている、時間など人が作り出した

生きていくための目安でしか無い、無限宇宙には時間など存在せず、昔も無ければ未来も無い、ただ魂が

前やら後やらわからぬままに生まれ変わる空間なのでしょう。

だから死は直ちに生に繋がり、「死から生までの時間はどのくらい」と問うのは人間の愚かさ故

死すなわち一瞬にしての生、人間界で言う何億年などの時間も一瞬でしか無い、なぜなら死という状態は

無だからです、無すなわち時間すら無なのだから、前の意識から新しい意識の間は無だから、前の意識から

次の意識に繋がるのは瞬間なのです。

ただここでまた疑問に突き当たる、それは永遠を生き続ける魂に「死」は無いのかと言うことです

それはわれわれ人間にわかるはずが無い、ただ想像としてはもし魂に死があるとすればそれが「涅槃」の内部

が死んだ魂の状態では無いかと思うのです、それはじゃあ「無」なのかというと、そうではないと思います

「無」はあまりにも孤独でむなしい(とはいえ何も感じていないのですが)、だが魂の死の状態こそ宗教的に

仏になった状態なのだと思われます、それはどんな状態なのか、姿形は無くとも「気」はある

だれでも「純粋な喜びや幸せな気分」を感じたことはあると思う、それが永遠に続く状態こそが仏の世界だと

理解すれば、そこが極楽と言えるでしょう。

 

魂には目が無いから、他の魂を魂の状態では見ることができません、けれど魂はほかの魂を感じる能力がある

それが愛で有り、恋で有り、憎悪なのです、そしてそれは言い換えれば「気」なのです

気=魂の働きの一つ 「気」については以前、ここで詳しく書いたことがある。

 

魂は何度も何度も血縁とは関連の無い人生を送るけれど、前の人生を覚えていたり、記憶などあり得ない、

しかしDNAという形で記憶は微かに残っているのでしょう、そういった顕著な現れが「多重人格」ではないかと

思うのです

ただこの私の考え方には矛盾がある、おおよそ意味はわかっているけれど表現力が幼稚で通じない

整理すれば①死の後、まったく別の体(動物であれ、植物であれ、異星人であれ)に魂は宿る、そして

その体を代々受け継いできた記憶をDNAとして受け継ぐ、だから死と共にその生物のDNAは自分の本来

の魂からは消え去る、こうして何億回もあらたな血脈を経験していく。

②魂そのものには何ら記憶もDNAもない、映画を見て感情移入するのと同じ、見終わって日常生活に

戻れば、映画を見たときの感情は忘れてしまうのに似ている

 

100万年前には猿人はいたかも知れないが人類は存在していなかった事を考えると、人間は永遠では無い

1億年栄えた恐竜さえ滅んだことを思えば、やはり生物の種は不滅では無いことが証明されている

地球そのものも、太陽さえも数十億年、数百億年後には消滅する、だから人間に生まれ変わるだけだとしたら

いずれは消え去る存在なのだ、けれども魂が自由に宇宙を浮遊しているなら、又新たな星の新たな生命

あるいは宇宙空間の中の生命体に宿る、それは魂「気」が永遠の命だからだ。

我らの本性は肉体では無く、人間でも無く、気という見えないが感じる存在なのだと思う

 

孤独感からここまで話しは飛躍してしまいましたが、何かの力が今、私に書かせている、最初のキーを

打つときにはこんな事は思いもしなかったのに

小説家とかは、そういった感覚が鋭い人たちなんだと思う、原稿用紙にペンがおりて最初の一字を書いた

瞬間から何かの記憶が降りてきて乗り移るのだと思う、それはけっして気味悪いものではなく

大きな過去の世界、記憶の世界が開く瞬間なのだと思います。