しばらくして氏康が上段に立ち出でて勘助に対面した
その表情には傲りが現れている。 勘助は平伏して拝し、仰いで傍らを見ると、御簾(みす)をかけた一間があった、中には夜の香鼻を奪うばかりである
そこには数百の女たちが御簾の間、あるいは几帳の間より、勘助と氏康の体面を見んと押しかけていて、のぞいては密かに囁き合っている
対面が終わり、勘助が退く姿は猿が飛ぶ如くに見えて、氏康はつい「クっ」と笑いを漏らした、すると左右の小姓数人も我慢の限界か氏康につられて笑い声をあげた、それを境に同席の士も爆笑し、当然ながら後ろに控えた女たちも一斉に笑い声に包まれた。
さすがに嘲笑に慣れた勘助も、この場のありように赤面して退出した。
氏康は左右を見て「七郎左衛門があまりにも推挙を申す故、会ってみたがこれほどの見にくき姿とは思わなかった、いかに一芸に優れていようとも、あれではさほどの事はあるまい、四体不具なる者を抱えて何の益になろうや」
松田尾張守、大道寺も勘助を見て喜ばず、七郎左衛門は二人に取りついて、様々に諭したが誰も取り上げようとしなかった。
松田七郎左衛門は勘助に会って、城内の無礼を謝り事の顛末を話した
勘助は「某、これまでも諸州を歩き、諸侯にまみえてきたが、これほどに号令厳重ならざる御家は見たことがござらん、このような様ではその国、きわめて危ういと申さざるを得ませぬ
当家の如きは、当国でも一二を争う大家であり、諸将綺羅星の如くひしめく、これを威令をもって治めねば大国を保つのは容易ではござらん
今日の体たらく、勘助の容貌いかに見苦しく笑うに堪えがたいと言えども、大将の御前であれば笑うことなど許されることではない
孫子の曰く『内に大将有りて、外に敵無ければ、これ勝ちという』とはまさこの事なり大将を大将とも思わぬから、このように自ら笑いも出るものなり
また傍らを見れば、多くの侍女の類、御簾の中から我を見物せし、これもまた女色を好む故なり、色を好み威厳乱れるは亡国の兆しである
さようなるときは五十年を待たずして国滅ぶでありましょう」と言った。
そして勘助の言った通り、五十余年を経て北条家が滅んだのは不思議なことである。
その日、勘助は旅支度を整えて次なる地へ旅立った。 北条家でただ一人、松田は勘助の実学に服してとどめたい気持ちはあったが、あえてそれをせず、ただただ主らの慇懃無礼を謝って見送った。
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