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(日立沖のサンライズ。この間15分)
おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
昨日からの続きです。
河合隼雄先生の『対話する生と死―ユング心理学の視点』という本に日本人男性に満足できず、アメリカ人と結婚した日本女性の話が載っています(P.118)。
彼女には、夫の友人で大嫌いな人がいた。それでも夫がその友人を家に招待するときは、辛抱して歓待した。
しかし、とうとう耐えられなくなって、ある時、夫に対してあの人は大嫌いなのだと言ってしまった。夫は黙って聞いてくれていたので、彼女の気持ちは伝わったものと思っていた。ところが、夫はしばらくして例の友人を伴って帰宅した。彼女は、自分の気持ちをまったく無視されたので、立腹して離婚したいと言った。
これに対して、アメリカ人の夫は彼女の愛情をこそ疑うと言い出した。友人を嫌いなのだったら、そう言うのはいい。しかし、その後で夫としては彼をどう思うのかを聞き、それだったら、あなたの友人を連れてきてもいいが、その時には、自分は接待しないとか、あるいは、1カ月に一度くらいなら我慢するとか、2人でいろいろと妥協点を見い出すようにするのが愛情のある行為である。それを、彼を嫌いだと言いっ放しにしてしまうだけでは愛情がない、というわけである。
この話を河合氏は、別の部分(P.212)で次のように解説しています。
日本人の妻は、「嫌だ」と言葉に出して言うのを「最後通告」と考えているのに対して、アメリカ人の夫は、それを「話し合いの始まり」として理解しているところである。つまり、ここで「言語化」することに対する、根本的な態度の変化が見られるのである。
日本人は、黙って耐えて「言語化」するのは最後通告であり、それを言ったからには、それに至るすべてのことを相手が「察して」行動する(夫はその友人をもう連れてこない)ことを期待しており、それを破るときは、愛情の破綻を意味していると考える。
アメリカ人の夫は、「言語化」を始めたなら、それを続け、2人で討論することによって解決なり妥協点を見い出す努力をすることを期待しており、それを続けないのは愛情がないからだと判断するのである。
いかがですか?
上のような話は、何も日本人の妻とアメリカ人の妻だから起きることだけでなく、日本人同士の夫婦にも起きることがあります。
感情(感性)重視の妻 VS 思考(論理)重視の夫
だからこそ、夫婦関係は難しくもあり、楽しくもある、と私は思うのです。
同じタイプだったら面白くないでしょう、夫婦って。
<お目休めコーナー> 冬景色①
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