最近、誰かと話している時、ふと感じることがある。
話は続いているけれど、話が全く交わっていないなと思う状態があるのだ・・・つまり、お互いに自分の事だけを懸命に言い続けているだけで長話をしている事が・・・。
またまた登場をお願いする海原純子先生の「心のサプリ」から・・・マニュアル対応云々・・・マニュアルはとても便利で、それに沿って対応すると自分が必要な情報を獲得できる。しかし逆に、相手が自分に伝えたい情報を聴きとる力はアップしないこともあるだろう・・・聴く力は「察する能力」に通じる。ただ聴くだけでなく、そこから相手の気持ち、状況を察することが、日本語というきわめて特殊な言語をもつ私たちの文化とコミュニケーションの基盤になってきた。それが崩壊している。(毎日新聞日曜版)
私がここで言いたいのは、「日本語文化の崩壊」でなく、勿論、大事なことだが、一応、それは置いといて、要するに、私が(友達もかな?)、相手の話を聴くという労力を、省き始めているのが問題だという事。
だから、互いに相手が、何故、この話を、今するのかを、感じる事が無くなっているようなのだ。それよりもっと悪く、長話をしていたのに、さて、あの時、何を話していたのかさえ、思い出さない時があるから、困ったものである。
昨晩、友人と映画の話をしていたとき(話を聴かない友人ではありません・・・念の為!)、出演していた俳優の名前が思い出せなくて(こんなことは、もう、日常茶飯事で)、「これは宿題ね!」と言って別れた。そして、1時間後、友人からメールが届き、俳優の名前が記されていた。
これで、気持ち悪さが消えると安堵したが、さ~て、彼等は何の映画に出ていたと言ったのだっけ・・・思い出せない・・・否、きっと、私は本気で聴いていなかったのだ。
私の「察する能力」は地に落ちたのかも・・・思い当たる節もあるから怖い
去年は病気に罹ったらしくて、花が咲かなかった「ゆり」だが、今年は、優雅な姿を見せてくれた。自然は強い!