何時も判断に苦しみますが、「日向水木」ですよね、これって・・・どうして覚えられないのか、覚える気がないのか・・・
4月1日。
昔は、「エイプリルフール(「4月バカ」と言った気がするが、今は差別用語?)」とか言って、言葉一つ発言するにも、気を使った事があったが、今は、どうなんでしょうかねぇ・・・この言葉を聞く事も少なくなった気がする。
先月、一つ、身軽になったとたんに、もっと身軽になりたくなって、あれこれ、考える事が出てくる。
そんな時には、同じような言葉が目について仕方がない。
と言っても、まるっきし、本は読まないし、偶に目にする新聞は斜め読みだから、文章の本質には、到底、至らない私だが、それでも、はたと目につく言葉に出合う。
二、三、ご紹介したいが、あくまでも、我が一方的且つ独断的解釈によるから、もし誤解釈であったとしてもお許し願いたい。
① 香山リカのココロの万華鏡から(抜粋)
「犯人さがし」を止めよう・・・「なぜ?」と問い続けるより、「もう考えない」と前を向く。こんな切り替えも、時には必要なのではないか。
② 男の気持ち(投稿者荒川真澄氏)から(抜粋)
終末への助走・・・私は最近、何か不思議な力で、自然に終活の流れみたいなものがゆっくりと出来て行くように感じている。
③ 小池龍之介のつながりの引き算から(抜粋)
「他」に求めず瞑想・・・言わば、方法的に鎖国をしてみれば、「足りない」と思い込んでいたのは気のせいで、内面のみで完全に満ちており、食料自給率は100%だったと気付くのです。かくして他に依存せずに、飄々と生きられるのです。
私的解釈では、どの言葉にも、その底流に感じるのは、「ものに囚われるな、拘るな」という囁きなのだ。
この歳(私だけか?)になると、物質であっても、人的繋がりであっても、新たに構築するのは、やはり、簡単では無いと思うから、既にあるもの、手に入れたものに、どうしても執着してしまう。
それが悪いとは思っていないが、執着する事に疲れている自分も感じる。
そんなしがらみを取り払いたいと思う気持ちと、その結果として何が残るのかという不安とが、常に葛藤している。
だが、これらの言葉(文章)に出合った時、ある種、縛りから解放されたような気持ちになり、嬉しくなった。
世の中、言葉通りには行かないもの・・・という認識は持っているけれど、ちょっと得られた解放感も捨てがたく、「4月バカ」ではない本物の我が「支え」にして見ようか・・・と考えているところなのである
「日向水木」を通してみる景色は、「桜」とは少し違った暖かな感じのある「春爛漫」を感じますよね