「デジカメ」の耐用年数が終わったのか、最近、接写の写りが悪いので、少し、試し撮りをしてみた・・・ピントが甘い!と思う。
「きちんとした回答がいただけていないと思うので繰り返し聞いています」
記者会見の席で、K学園をめぐり、「出所不明の文書を調べる必要はない」と繰り返すやりとりで「同趣旨の質問は控えて」と注意を受けた記者が述べた一言だそうです(毎日新聞:「土記」欄:青野由利氏著を参考)。
日々のニュースを垣間見ているだけですが、国会であれ、TV番組であれ、何か話題になった事件の結末(決着)は、一体、どうなったの?という事が多いと思いませんか?
このコラム(土記)にも述べられていますが、こういった曖昧さが解消されなくても、「どうせ、世の中、こんなものよ」と、諦めと無力感に慣らされてしまう事が怖いと思うのですね。
世の中を動かすような大事でなくとも、結構、日常にも、そんな雰囲気ってありますよね。
たとえば、私自身がある質問を受けた時、経過は述べないまでも結論は言ってしまう・・・と、自覚・認識していますが、同じ質問を誰かにした時、「まぁね」とか「いろいろとね」とかでウヤムヤになってしまって、先が見えないでいる事が多いと感じます。
紆余曲折はあっても、結果、あなたはどう思っているのか・・・を確認できないと、それ以上、踏み込んだお付き合いが出来ないし、多分、私は、通り一遍の挨拶しかしなくなるでしょうね(相手側が拒否しているならば別問題として・・・)。
自分と同じ生き方・考え方でなくても良いのですね、追求する気持ちもありません、ただ、あなたは、どう考えているの?と、あなたの意志を知っておきたいのです。
冒頭に返って思うに、世の中のしくみが、あまりにも、曖昧でもあって進んでしまうという事に、恐れを感じます。
特にマスコミ関係者には「きちんとした回答がいただける」まで、頑張って貰いたいと熱望しますが、よくよく考えれば、曖昧でイイと追及を欲しないのは、我ら名もなき国民の仕業なのかも・・・という思いもするのです。
昼頃、突然、雨が降って来たので、散り際の薔薇の花を撮った・・・散ってしまうとは思えない瑞々しさが見えると自画自賛 。