○奈良国立博物館「法隆寺~日本仏教美術の黎明」展
京都1泊のあと、日曜日は奈良に行った。この法隆寺展は、ディープな法隆寺好き(仏像好き)にはちょっと物足りない企画ではないかと思う。法隆寺からいらしている大型の仏像は多聞天像1体だけだ。あとは小型の金銅仏が主で、それも東博の法隆寺館や韓国・中国から類型の仏像を借りてきて数を埋めているようで、ちょっとずるい。
ただ多聞天1体でも見る価値はある。ライティングの効果か、実物は写真よりずいぶんいい。着物の袖や裾に施された繊細なドレープなど、細部をじっくり楽しむことができる。四足を踏ん張っている餓鬼をお尻の側から見ることができるのもめったに無い余得だ。
それから金堂の釈迦三尊の上に吊るされている天蓋と、その装飾である飛天の生真面目な愛らしさも一見に値する。
また、金堂内陣の(焼け残りの)旧壁画をまじまじと近くで眺めることができたことも幸せだった。のびやかな肢体で虚空に舞う「飛天」の筆致は、何か、文化の絶頂を生きる者の自信を感じさせる。それは、天蓋装飾の木彫の天女や、数多い金銅仏の造形が、まだ初発の厳粛で敬虔な祈りに基づいているのとは、対照的である。
ひとくちに法隆寺と言っても、仏教美術の黎明と言っても、その内包する時代はけっこう長いし、文化や人々の思想は大きく変遷している。
どの段階に共感するかは人によって異なるだろうが、私自身は、無数の無個性で稚拙な金銅仏の中から、偶然なのか工人の工夫によってか、「慈悲」や「大智」に値する思想性の表現を獲得した仏像がまさに立ち出でてくるあたり(止利様式の成立と展開と言われるところである)にとても惹かれた。
京都1泊のあと、日曜日は奈良に行った。この法隆寺展は、ディープな法隆寺好き(仏像好き)にはちょっと物足りない企画ではないかと思う。法隆寺からいらしている大型の仏像は多聞天像1体だけだ。あとは小型の金銅仏が主で、それも東博の法隆寺館や韓国・中国から類型の仏像を借りてきて数を埋めているようで、ちょっとずるい。
ただ多聞天1体でも見る価値はある。ライティングの効果か、実物は写真よりずいぶんいい。着物の袖や裾に施された繊細なドレープなど、細部をじっくり楽しむことができる。四足を踏ん張っている餓鬼をお尻の側から見ることができるのもめったに無い余得だ。
それから金堂の釈迦三尊の上に吊るされている天蓋と、その装飾である飛天の生真面目な愛らしさも一見に値する。
また、金堂内陣の(焼け残りの)旧壁画をまじまじと近くで眺めることができたことも幸せだった。のびやかな肢体で虚空に舞う「飛天」の筆致は、何か、文化の絶頂を生きる者の自信を感じさせる。それは、天蓋装飾の木彫の天女や、数多い金銅仏の造形が、まだ初発の厳粛で敬虔な祈りに基づいているのとは、対照的である。
ひとくちに法隆寺と言っても、仏教美術の黎明と言っても、その内包する時代はけっこう長いし、文化や人々の思想は大きく変遷している。
どの段階に共感するかは人によって異なるだろうが、私自身は、無数の無個性で稚拙な金銅仏の中から、偶然なのか工人の工夫によってか、「慈悲」や「大智」に値する思想性の表現を獲得した仏像がまさに立ち出でてくるあたり(止利様式の成立と展開と言われるところである)にとても惹かれた。