○根津美術館 『燕子花図と藤花図-館蔵屏風絵 -』
http://www.nezu-muse.or.jp/
連休後半の初日は、好天に誘われたのか、表参道ヒルズ人気の余波か、入口に行列ができるほどの混雑だった。展示室に入ると、華やかな『吉野龍田図』に迎えられる。見渡すと、いずれ劣らぬ屏風の名品が8点。そのほとんどは絢爛豪華な金地濃彩である。ふと「竟宴(きょうえん)」という言葉が頭に浮かんだ。ものごとの終わり(竟)を華やかに祝う宴会のことだ。
根津美術館は、本展終了後、改築工事のため、3年半にわたり休館する予定だという。フロア中央のガラスケースが取り払われているのも、改築準備のためだろうか、と勘ぐりたくなる。年に数回は来ていた美術館なので、休館はちょっと寂しい。3年半後、私は何をしてるかなあ。何も変わらない生活かしら。
さて、『吉野龍田図』は、向かって右に桜の吉野、左に紅葉の龍田を配したもの。紅葉の照り返しを表現するのに(?)なぜか白を多用している。赤と白のコントラストで華やかさを盛り上げるという、ありえない紅葉の表現がズルイ。
『蹴鞠図』(写真あり)は初見だろうか。左隻の右サイドを斜めに過ぎる幔幕のシャープな線、左サイドの水辺を表す、たっぷりした曲線を見て、あーこれは琳派だろう、と思ったら、桃山時代とあって、びっくりした。
やはり、光琳の『燕子花図』の前は、いちばん人が多い。昨年秋にも見ているので、記憶が新たである。ほぼ同じ大きさ、同じ形のカキツバタの花(ただし色の塗りわけに差異がある)をスタンプを押すみたいに繰り返しているのは、20世紀のポップ・アートの先駆けだなあ、なんて思う。
それに比べると、応挙の『藤花図』の前は、やや人の数が少ない。しかし、私はこの作品に、魂から魅入られてしまった。近づいてみると、小さな藤の花の1つ1つが、白、青、紫などの複雑な重ね塗りで描かれている。まるで印象派だ。応挙はモネの睡蓮を知っていたのではないか!?なんて、思わず、ありえない想像をしてしまう(逆か。藤花図は1776年、モネの睡蓮は1890年代から)。緑の葉と若い蔓も比較的リアルな描きぶりである。それなのに、一転して枝と幹は、水墨画の一筆書きだ。自在な筆の走りと滞りが、藤の古木らしさを、即興と抽象の中に表している。なんだろう、この憎らしいほどの画力は!
私は本物の『藤花図』を初めて見ると思うのだが、根津美術館のサイト(前掲)で、写真はたびたび見た記憶がある。しかし、一度もいいと思ったことがない。いま、見直しても、やっぱり写真では、パッとしない作品だと思う。一方の『燕子花図』は、写真と本物では色の印象がずいぶん違うのだが、しかし、小さな写真でも十分魅力が伝わってくる。不思議なものだ。同じ日本画でも、写真でよさの伝わるものもあれば、伝わらないものもあるのだ。
画集、テレビ、ネットなど、手軽な複製メディアのおかげで、日本美術は、ずいぶん我々の生活に近いものになった。しかし、我々の日本美術に対する嗜好は、もしかすると「写真映り」のいいものに偏っているのかもしれない。ちょっと気に留め置くべきことだと思った。
http://www.nezu-muse.or.jp/
連休後半の初日は、好天に誘われたのか、表参道ヒルズ人気の余波か、入口に行列ができるほどの混雑だった。展示室に入ると、華やかな『吉野龍田図』に迎えられる。見渡すと、いずれ劣らぬ屏風の名品が8点。そのほとんどは絢爛豪華な金地濃彩である。ふと「竟宴(きょうえん)」という言葉が頭に浮かんだ。ものごとの終わり(竟)を華やかに祝う宴会のことだ。
根津美術館は、本展終了後、改築工事のため、3年半にわたり休館する予定だという。フロア中央のガラスケースが取り払われているのも、改築準備のためだろうか、と勘ぐりたくなる。年に数回は来ていた美術館なので、休館はちょっと寂しい。3年半後、私は何をしてるかなあ。何も変わらない生活かしら。
さて、『吉野龍田図』は、向かって右に桜の吉野、左に紅葉の龍田を配したもの。紅葉の照り返しを表現するのに(?)なぜか白を多用している。赤と白のコントラストで華やかさを盛り上げるという、ありえない紅葉の表現がズルイ。
『蹴鞠図』(写真あり)は初見だろうか。左隻の右サイドを斜めに過ぎる幔幕のシャープな線、左サイドの水辺を表す、たっぷりした曲線を見て、あーこれは琳派だろう、と思ったら、桃山時代とあって、びっくりした。
やはり、光琳の『燕子花図』の前は、いちばん人が多い。昨年秋にも見ているので、記憶が新たである。ほぼ同じ大きさ、同じ形のカキツバタの花(ただし色の塗りわけに差異がある)をスタンプを押すみたいに繰り返しているのは、20世紀のポップ・アートの先駆けだなあ、なんて思う。
それに比べると、応挙の『藤花図』の前は、やや人の数が少ない。しかし、私はこの作品に、魂から魅入られてしまった。近づいてみると、小さな藤の花の1つ1つが、白、青、紫などの複雑な重ね塗りで描かれている。まるで印象派だ。応挙はモネの睡蓮を知っていたのではないか!?なんて、思わず、ありえない想像をしてしまう(逆か。藤花図は1776年、モネの睡蓮は1890年代から)。緑の葉と若い蔓も比較的リアルな描きぶりである。それなのに、一転して枝と幹は、水墨画の一筆書きだ。自在な筆の走りと滞りが、藤の古木らしさを、即興と抽象の中に表している。なんだろう、この憎らしいほどの画力は!
私は本物の『藤花図』を初めて見ると思うのだが、根津美術館のサイト(前掲)で、写真はたびたび見た記憶がある。しかし、一度もいいと思ったことがない。いま、見直しても、やっぱり写真では、パッとしない作品だと思う。一方の『燕子花図』は、写真と本物では色の印象がずいぶん違うのだが、しかし、小さな写真でも十分魅力が伝わってくる。不思議なものだ。同じ日本画でも、写真でよさの伝わるものもあれば、伝わらないものもあるのだ。
画集、テレビ、ネットなど、手軽な複製メディアのおかげで、日本美術は、ずいぶん我々の生活に近いものになった。しかし、我々の日本美術に対する嗜好は、もしかすると「写真映り」のいいものに偏っているのかもしれない。ちょっと気に留め置くべきことだと思った。