○藤原正彦『国家の品格』(新潮新書) 新潮社 2005.11
ベストセラーは読まないことにしている。とは言え、これだけ(200万部?)売れていると聞くと、それなりに読む価値があるのではいか、という疑念が湧いてきて、本屋の店頭で、ちょっと中を覘いてみた。そうしたら、何だかスカスカした文言が並んでいるばかりだった。狐につままれたように感じて、そのまま棚に戻してしまった。
そうしたら、先週、紀伊國屋のセミナー『書物復権』で、進行役の佐藤学氏が、教養の喪失を象徴する「嘆かわしいベストセラー」として、さかんに槍玉にあげていたのがこの本だった。天邪鬼の私は、これだけ批判される本なら、やっぱり読んでみようかという気になった。
直後に、長谷川一さんの書評ブログで記事を見つけた。この書評は面白かった。同氏の要約によれば、本書の内容は、毒にも薬にもならない程度の日本論であるようだ。しかし、問題は「本文組みのゆるさ」にある。私はうなづいた。そうなのだ。このスカスカした版面の印象が、私から読書意欲を奪うのだ。そして、長谷川さんの書評を味読するために、私は、勇気をふるって『国家の品格』を読んでみることにした。
しかし、結論を言ってしまうと、私は本書を読み通せなかった。なんかこう、つらいのだ。うーむ。私は食生活においてはジャンク・フード好きである。読書生活においても、ジャンクな書籍を排除しない。マンガも、タレント本も、小林よしのりも読む。しかし、本書は著者にジャンクの自覚が全くない点で、ジャンクよりなお始末が悪い。
佐藤学氏は「最近のベストセラーの条件は、何か過激なことを言ってみること」とおっしゃっていたけれど、これは本書には当てはまらない。国際人を育てるには英語よりも国語教育とか、民主主義よりも惻隠の情とか、ナショナリズム(愛国心)は危険だから、それよりも郷土を愛するパトリオティズム(祖国愛)を教えよ、とか。本書には、むしろ気味の悪いほど、ソフトで当たり障りのない発言が並んでいる。どうもマスコミは、話題づくりで過激な異論に飛びつきたがるけれど、出版メディアで万人に受けるのは、「カロリー控えめ、とってもヘルシー」路線が一番のようだ。その実態は、得体の知れない人工甘味料だったりするのだが。
本書の胡散臭さは、たとえば「もののあはれ」と「武士道」という、全く恣意的な組み合わせで日本を語ることに、著者が、何の「学問的反省」も抱いていないことだ。そもそも数学者に、そんな反省を求めてはいけないだろうか。いや、酒席のヨタ話ならいざ知らず、知識人なら、たとえ専門分野以外のトピックであっても、出版を通じて公にされる発言には、常に一定の責任が伴っていたはずだ。そして、その「責任」を核に、読者たる国民の「教養」と「品格」が形づくられてきたはずである。本書の体たらくが表しているものは、長谷川一氏の書評に拠るならば、「かつて新書というメディアになんらかの意味で『品格』とよべるものがあったとしたら、今日ではそれが決定的に失われてしまっているという現実なのである」。
本書を読むことに何か意味があるとしたら、この皮肉をひりひりと肌身に実感することだけかもしれない。
ベストセラーは読まないことにしている。とは言え、これだけ(200万部?)売れていると聞くと、それなりに読む価値があるのではいか、という疑念が湧いてきて、本屋の店頭で、ちょっと中を覘いてみた。そうしたら、何だかスカスカした文言が並んでいるばかりだった。狐につままれたように感じて、そのまま棚に戻してしまった。
そうしたら、先週、紀伊國屋のセミナー『書物復権』で、進行役の佐藤学氏が、教養の喪失を象徴する「嘆かわしいベストセラー」として、さかんに槍玉にあげていたのがこの本だった。天邪鬼の私は、これだけ批判される本なら、やっぱり読んでみようかという気になった。
直後に、長谷川一さんの書評ブログで記事を見つけた。この書評は面白かった。同氏の要約によれば、本書の内容は、毒にも薬にもならない程度の日本論であるようだ。しかし、問題は「本文組みのゆるさ」にある。私はうなづいた。そうなのだ。このスカスカした版面の印象が、私から読書意欲を奪うのだ。そして、長谷川さんの書評を味読するために、私は、勇気をふるって『国家の品格』を読んでみることにした。
しかし、結論を言ってしまうと、私は本書を読み通せなかった。なんかこう、つらいのだ。うーむ。私は食生活においてはジャンク・フード好きである。読書生活においても、ジャンクな書籍を排除しない。マンガも、タレント本も、小林よしのりも読む。しかし、本書は著者にジャンクの自覚が全くない点で、ジャンクよりなお始末が悪い。
佐藤学氏は「最近のベストセラーの条件は、何か過激なことを言ってみること」とおっしゃっていたけれど、これは本書には当てはまらない。国際人を育てるには英語よりも国語教育とか、民主主義よりも惻隠の情とか、ナショナリズム(愛国心)は危険だから、それよりも郷土を愛するパトリオティズム(祖国愛)を教えよ、とか。本書には、むしろ気味の悪いほど、ソフトで当たり障りのない発言が並んでいる。どうもマスコミは、話題づくりで過激な異論に飛びつきたがるけれど、出版メディアで万人に受けるのは、「カロリー控えめ、とってもヘルシー」路線が一番のようだ。その実態は、得体の知れない人工甘味料だったりするのだが。
本書の胡散臭さは、たとえば「もののあはれ」と「武士道」という、全く恣意的な組み合わせで日本を語ることに、著者が、何の「学問的反省」も抱いていないことだ。そもそも数学者に、そんな反省を求めてはいけないだろうか。いや、酒席のヨタ話ならいざ知らず、知識人なら、たとえ専門分野以外のトピックであっても、出版を通じて公にされる発言には、常に一定の責任が伴っていたはずだ。そして、その「責任」を核に、読者たる国民の「教養」と「品格」が形づくられてきたはずである。本書の体たらくが表しているものは、長谷川一氏の書評に拠るならば、「かつて新書というメディアになんらかの意味で『品格』とよべるものがあったとしたら、今日ではそれが決定的に失われてしまっているという現実なのである」。
本書を読むことに何か意味があるとしたら、この皮肉をひりひりと肌身に実感することだけかもしれない。