○丸谷才一、大岡信、岡野弘彦『すばる歌仙』 集英社 2005.12
「歌仙」というのは、五七五と七七を交互に詠んで36句を連ねる連句である。江戸時代には、俳諧といえば連句のことだったらしいが、近代以降、俳句は五七五で味わうものと決まってしまった。その結果、芭蕉や蕪村の「俳句」なら、小学生でも知っているのに、現代人が「連句」を学ぶ機会は、ほとんどない。
唯一の例外が、丸谷才一さんの活動である。私は、余さず読んできたように思ったが、検索してみると『浅酌歌仙』(集英社 1988)、『とくとく歌仙』(文藝春秋 1991)の2冊しかない。あれー、そんなものだったか。いや、文芸評論と一緒に歌仙を収録したものが、もう1冊くらい、あったような気がする。明日、実家に戻って自分の書棚を探してみるとしよう。しかし、どちらにしても、1980年代からの活動だから息が長い。
本書には、1999年から2005年の間に巻かれた5つの歌仙が収録されている。1999年だけは丸谷・大岡の2人で巻いたもので、2001年から岡野弘彦が加わった。岡野さんは折口信夫門下の歌人である(恥ずかしながら、私は本書で初めてお名前を知った)。
過去の歌仙の参加者、石川淳や井上ひさしも面白かったが、この3人の組み合わせは、文学的にバランスが取れていて味わい深い。歌人(日本民俗学)の岡野弘彦、詩人(フランス象徴詩)の大岡信、小説家(イギリス風俗小説)の丸谷才一、という、際立った個性の違いが、しなやかな弓弦(ゆづる)のように、作品世界を気持ちよく振り動かす。
私は、まず、歌仙だけを読む。句の意味や、どうしてAの句とBの句が並ぶのか、つながりを考えながら読む。それから座談形式の解説を読むと、当たっていることもあれば、全然当たっていないところもある。「屈託のない子と言はれ辞書を引き/泪羅(べきら)に身投げした人を識る」は、辞書で「屈託」を引くと、その少し前に「屈原」があるだろうから、という付け。丸谷さんらしい。
「ここは斉藤茂吉の短歌が連想として働いていますね」「そうそう」なんて解説を読むと、たちまち、同じ字面から全く違った印象が立ち現れてくる。時には、あとで作者自身が「そうか、僕は茂吉の歌を念頭に置いていたのか」と確認している場面もあって、創作者の無意識の中を伝わり続ける、文学の伝統の不思議を実感させる。
本書のおもしろさのひとつは、岡野弘彦さんの口から語られる、折口信夫と柳田国男の素顔の数々である。彼らは旅先の旅館で、電話を使って歌仙を巻いたという。「今ならケータイで歌仙を巻くかもしれない」というひとことを読んだとたん、いつも丸谷さんのエッセイの挿絵を描いている和田誠さんの絵が、ありありと浮かんでしまった。和田誠さん、描いてくれないかなあ。ケータイを使う、折口信夫と柳田国男の図。
「歌仙」というのは、五七五と七七を交互に詠んで36句を連ねる連句である。江戸時代には、俳諧といえば連句のことだったらしいが、近代以降、俳句は五七五で味わうものと決まってしまった。その結果、芭蕉や蕪村の「俳句」なら、小学生でも知っているのに、現代人が「連句」を学ぶ機会は、ほとんどない。
唯一の例外が、丸谷才一さんの活動である。私は、余さず読んできたように思ったが、検索してみると『浅酌歌仙』(集英社 1988)、『とくとく歌仙』(文藝春秋 1991)の2冊しかない。あれー、そんなものだったか。いや、文芸評論と一緒に歌仙を収録したものが、もう1冊くらい、あったような気がする。明日、実家に戻って自分の書棚を探してみるとしよう。しかし、どちらにしても、1980年代からの活動だから息が長い。
本書には、1999年から2005年の間に巻かれた5つの歌仙が収録されている。1999年だけは丸谷・大岡の2人で巻いたもので、2001年から岡野弘彦が加わった。岡野さんは折口信夫門下の歌人である(恥ずかしながら、私は本書で初めてお名前を知った)。
過去の歌仙の参加者、石川淳や井上ひさしも面白かったが、この3人の組み合わせは、文学的にバランスが取れていて味わい深い。歌人(日本民俗学)の岡野弘彦、詩人(フランス象徴詩)の大岡信、小説家(イギリス風俗小説)の丸谷才一、という、際立った個性の違いが、しなやかな弓弦(ゆづる)のように、作品世界を気持ちよく振り動かす。
私は、まず、歌仙だけを読む。句の意味や、どうしてAの句とBの句が並ぶのか、つながりを考えながら読む。それから座談形式の解説を読むと、当たっていることもあれば、全然当たっていないところもある。「屈託のない子と言はれ辞書を引き/泪羅(べきら)に身投げした人を識る」は、辞書で「屈託」を引くと、その少し前に「屈原」があるだろうから、という付け。丸谷さんらしい。
「ここは斉藤茂吉の短歌が連想として働いていますね」「そうそう」なんて解説を読むと、たちまち、同じ字面から全く違った印象が立ち現れてくる。時には、あとで作者自身が「そうか、僕は茂吉の歌を念頭に置いていたのか」と確認している場面もあって、創作者の無意識の中を伝わり続ける、文学の伝統の不思議を実感させる。
本書のおもしろさのひとつは、岡野弘彦さんの口から語られる、折口信夫と柳田国男の素顔の数々である。彼らは旅先の旅館で、電話を使って歌仙を巻いたという。「今ならケータイで歌仙を巻くかもしれない」というひとことを読んだとたん、いつも丸谷さんのエッセイの挿絵を描いている和田誠さんの絵が、ありありと浮かんでしまった。和田誠さん、描いてくれないかなあ。ケータイを使う、折口信夫と柳田国男の図。