見もの・読みもの日記

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聖者からムッソリーニまで/もうひとつのルネサンス(岡田温司)

2007-04-10 12:35:51 | 読んだもの(書籍)
○岡田温司『もうひとつのルネサンス』(平凡社ライブラリー) 平凡社 2007.3

 最近、ほんのちょっとだが西洋美術に関心が向いている。むかしは西洋美術のほうが好きだったのだが、東洋美術に骨の髄までどっぷり浸かり、また新鮮な目で西洋美術に接近しつつあるのだ。そんなわけで、書店でふと目にした本書は、表紙の愛らしい天使と、本文中に満載の図像が気に入って、買ってしまった。

 著者は「エピローグ」で本書の構成について、「お互いにあまり関連性が「あるようには思われない八つの論考からなっている」と述べている。とはいえ、第1章「エヴァの誕生」、第4章「法悦のコレオグラフィー」、第6章「貧しき者たちの肖像」は、描かれた主題に着目した絵画美術論である。

 面白かったのは第2章「ルネサンス美術のもうひとつの顔」で、著者は「ルネサンスというと、レオナルドやミケランジェロという大スター」や宮殿の神話画、大祭壇画の傑作・大作をすぐに思い浮かべる態度を戒め、市井の人々の生活空間に浸透していた絵画表現を考察の対象とする。たとえば、子どもには、どんな絵を見せて育てることが良しとされたか。女性の場合はどうか。婚礼家具(カッソーネと呼ばれる長持ち)には何が描かれ、出産祝いのお盆(デスコ・ダ・パルト)には何が描かれたか。

 婚礼家具に、女性の略奪をテーマにした絵(サビーニの女の略奪、ヘレネーの略奪)が描かれることが多かったというのは、意外なような、納得のような。西洋美術の場合でも、絵画はただ絵画としてあったのではなく、「吉祥」とか「呪術」とか「社会的関係の確認」とか、いろいろな意味が込められていたのだな。また、絵画は「見るもの」であると同時に、描かれた人物(たとえばキリスト、聖者、慈悲を請う貧者)の視線を意識するものであった、という指摘も面白いと思った。

 そうした造形的遺産を、もとの「文脈(場面)」から切り離し、純粋な「美術品」として鑑賞しようとする美術館の態度は正しいのか。この鑑賞者の問題を扱ったのが、第5章「ディレッタント登場」と第7章「アンチ美術館の論理と倫理」である。

 こうして、ルネサンス以前のキリスト図像学に始まる本書は、いつの間にかルネサンスを駆け抜けて(ビッグ・ネームはほとんど登場しない)、近代美術館の展示方法に話が及ぶ。このあたりまでは、まあ驚かないが、さすがに目を剥いたのは、最終章「ムッソリーニの芸術指南」である。

 でも面白かったなあ、この章。ナチス・ドイツが擬似古典主義のみを正統と認め、その他の近代芸術を「退廃芸術」として断罪したのに対し、ムッソリーニ政権下のイタリアは、さまざまな様式が許容され、花開き、ずいぶん異なる状況にあったようである。ファシズムと芸術の関係が、つねに一様でないというのは興味深い。芸術の国イタリアの底力みたいなものかしら。
コメント
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