○木下直之『わたしの城下町:天守閣からみえる戦後の日本』 筑摩書房 2007.3
昭和29年(1954)浜松生まれの著者は、昭和33年に復興された浜松城の天守閣を見て育った。石垣に登って忍者ごっこをして遊び、城内の小中学校に通った。城内には動物園や郷土博物館など、さまざまな文化施設があった。たぶん戦後日本の多くの子どもたちが同じような思い出を持っているに違いない。昭和30年代は、全国各地で鉄筋コンクリート造のお城が、雨後のタケノコのように建てられたときだった。
本書は、皇居(江戸城)に始まり、東海道・山陽・四国・九州・沖縄まで、お城と「お城のようなもの」を訪ね歩いた記録エッセイである。私は近世史にあまり関心がないので、城郭史には詳しくない。本書を読んで初めて、全国津々浦々に、たくさんのお城があること、しかし、その大半は戦後の復元であることを知った。
戦後の日本人は、とにかく我が町にお城(天守閣)が欲しかったらしい。名古屋城のように、戦災で失われたものを取り戻したい、という場合もあるが、そもそも天守閣が造られたことのない城址(あるいは城址でさえない土地)に、ムリヤリそれを造ってしまう、ということも行われた。精神分析の対象としては、非常に面白いのではないかと思う。その癖は、近年も治っていなくて、著者のあとがきによれば、全国各地の城下町に足を運ぶたびに「奇妙奇天烈なお城」が待っているという。
これだけ「奇妙奇天烈なお城」について読んでしまうと、きわめつけのホンモノ、姫路城が焼けずに残ったのは、実に奇跡だと思う(姫路は米軍の激しい空襲を受けた)。やっぱり、富姫さまと魔物たちがお城を守ったのだろうか。そう、姫路城は泉鏡花『天守物語』の舞台である。著者は姫路城について「『天守物語』を読んでいるかいないかで、姫路城の印象はふたつに分かれる」と書いているけれど、あ~私は、姫路城の天守閣には登っていないんだ。周囲の石垣を見ただけで。今度、登ってこなくちゃ~。天守閣の解体修理が行われた昭和31年、宮大工の棟梁は数百の人魂に取り付かれるという異変を体に感じたそうだ。こ、こわい。
お城に付随するものとして、護国神社と戦没者の遺品、藩主の墓所、郷土の偉人の銅像のゆくえ等々に関する考察も興味深い。皇居のそばにあった山県有朋の騎馬像は、戦後、軍国主義の象徴として嫌われ、上野公園→東京都美術館の裏→井の頭自然文化園を転々とし、郷里の萩市民球場に移設された。山本五十六元帥の巨大な銅像は、土浦海軍航空隊の庭にあったが、占領軍の目から隠すため、上下に分断して(!)霞ヶ浦に沈められた。その後、胸部は引き上げられて長岡の生家に安置されている。
横浜掃部山公園には、みなとみらい21の遠景を見下ろすように、井伊直弼像が立っている。古めかしい衣冠束帯姿に似合わず、いちはやく開国を唱えた彼にはふさわしい前景かもしれない(著者撮影の写真が、眩暈がするほど印象的!)。銅像の序幕式では、伊藤博文、井上馨らの妨害にもかかわらず、大隈重信が祝辞を述べたという。これら、いずれも見に行きたいなあ。
「皇居前広場」がある種の隠語だった頃――1964年9月の「朝日ジャーナル」に掲載された報道写真「和田倉橋の恋人たち」についての言及もあり。私は、アンドルー・ゴードンさんの『日本の200年』の扉絵で初めて見たのだが、有名な写真なのね。
昭和29年(1954)浜松生まれの著者は、昭和33年に復興された浜松城の天守閣を見て育った。石垣に登って忍者ごっこをして遊び、城内の小中学校に通った。城内には動物園や郷土博物館など、さまざまな文化施設があった。たぶん戦後日本の多くの子どもたちが同じような思い出を持っているに違いない。昭和30年代は、全国各地で鉄筋コンクリート造のお城が、雨後のタケノコのように建てられたときだった。
本書は、皇居(江戸城)に始まり、東海道・山陽・四国・九州・沖縄まで、お城と「お城のようなもの」を訪ね歩いた記録エッセイである。私は近世史にあまり関心がないので、城郭史には詳しくない。本書を読んで初めて、全国津々浦々に、たくさんのお城があること、しかし、その大半は戦後の復元であることを知った。
戦後の日本人は、とにかく我が町にお城(天守閣)が欲しかったらしい。名古屋城のように、戦災で失われたものを取り戻したい、という場合もあるが、そもそも天守閣が造られたことのない城址(あるいは城址でさえない土地)に、ムリヤリそれを造ってしまう、ということも行われた。精神分析の対象としては、非常に面白いのではないかと思う。その癖は、近年も治っていなくて、著者のあとがきによれば、全国各地の城下町に足を運ぶたびに「奇妙奇天烈なお城」が待っているという。
これだけ「奇妙奇天烈なお城」について読んでしまうと、きわめつけのホンモノ、姫路城が焼けずに残ったのは、実に奇跡だと思う(姫路は米軍の激しい空襲を受けた)。やっぱり、富姫さまと魔物たちがお城を守ったのだろうか。そう、姫路城は泉鏡花『天守物語』の舞台である。著者は姫路城について「『天守物語』を読んでいるかいないかで、姫路城の印象はふたつに分かれる」と書いているけれど、あ~私は、姫路城の天守閣には登っていないんだ。周囲の石垣を見ただけで。今度、登ってこなくちゃ~。天守閣の解体修理が行われた昭和31年、宮大工の棟梁は数百の人魂に取り付かれるという異変を体に感じたそうだ。こ、こわい。
お城に付随するものとして、護国神社と戦没者の遺品、藩主の墓所、郷土の偉人の銅像のゆくえ等々に関する考察も興味深い。皇居のそばにあった山県有朋の騎馬像は、戦後、軍国主義の象徴として嫌われ、上野公園→東京都美術館の裏→井の頭自然文化園を転々とし、郷里の萩市民球場に移設された。山本五十六元帥の巨大な銅像は、土浦海軍航空隊の庭にあったが、占領軍の目から隠すため、上下に分断して(!)霞ヶ浦に沈められた。その後、胸部は引き上げられて長岡の生家に安置されている。
横浜掃部山公園には、みなとみらい21の遠景を見下ろすように、井伊直弼像が立っている。古めかしい衣冠束帯姿に似合わず、いちはやく開国を唱えた彼にはふさわしい前景かもしれない(著者撮影の写真が、眩暈がするほど印象的!)。銅像の序幕式では、伊藤博文、井上馨らの妨害にもかかわらず、大隈重信が祝辞を述べたという。これら、いずれも見に行きたいなあ。
「皇居前広場」がある種の隠語だった頃――1964年9月の「朝日ジャーナル」に掲載された報道写真「和田倉橋の恋人たち」についての言及もあり。私は、アンドルー・ゴードンさんの『日本の200年』の扉絵で初めて見たのだが、有名な写真なのね。